2023/02/01

やわらかさ

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91歳の看護師の川嶋みどり先生と、先日、対談をさせて頂きました。

看護師というお仕事は、その昔は家庭を持つことも許されず、ひたすら奉仕するものであったそうです。

川嶋先生は、そのような過酷な環境では看護師の仕事が持続可能ではないと考え、看護師の社会的地位の確立に尽力されました。

現在も、様々な活動を通じて看護師の育成を精力的にされています。

川嶋先生は、看護師にとって「触れる」ことが大切だと言われます。

触れることで相手の状態を理解し、相手は触れられることで気分が良くなって、その相互作用により生命力が発揮すると言われます。


川嶋先生は昨年、心身統一合氣道の稽古を始められました。

実際に、稽古で川嶋先生に触れられると、何と表現して良いか分からないほどやわらかく、温かく、優しい手です。

実は、このやわらかさが、心身統一合氣道においても重要なのです。

固い状態で相手と接すると、氣の動きが理解できなくなります。その結果、相手とぶつかってしまい、自在に動けなくなるのです。

固い状態だと怪我や不具合も生じやすくなります。

固くて良いことは一つもないのに、人はなぜ固くなってしまうのでしょうか。その固さはいったい何から生じるのでしょうか。

これは、稽古における大きなテーマです。


身体の面から見れば、「柔軟性」と「筋肉の質」がポイントです。

「柔軟性」は、リラックスした状態で動かす(伸ばす)ことで得られます。ただ行えば良いのではなく、統一体で行うことで効果が上がります。

柔軟性が不足した状態で動くと、様々なところに無理が生じます。

「筋肉の質」は、日頃から無理のない姿勢や動作であることで高まります。通常はやわらかく、力を発揮するときに固くなる筋肉になります。

バランスの悪い姿勢だと、常に不要な筋肉を使って姿勢を支えています。身体がその状態を覚えてしまい、力を抜いても固さが残るのです。日常の過ごし方が大切ということです。

藤平光一先生は、自分の腕を生徒さんに触れさせることがありました。力を抜くと水風船のようにやわらかく、力を込めると石のように固い。自在に変化する筋肉に、みな驚いていました。


心の面から見れば、「柔軟性」と「受容性」が重要です。

同じ「柔軟性」でも、この場合は、心が柔軟であることを指しています。例えば、「こうでなければいけない」と考えると、心は固くなります

「心が身体を動かす」のですから、心の固さは身体の力みに繋がります。心に柔軟性がないと、常に相手とぶつかってしまうのです。

「受容性」という言葉には、使い方によって様々な意味があるようですが、この場合は、相手を理解する(受け入れる)ことを指しています。

相手を理解する姿勢がないとき、自分の我意を押し通そうとするとき、心は固くなり、それは身体の固さとなって表れます。

心のやわらかさは、肉体的な力を抜くだけでは得られません。自分の考え方、捉え方の癖を正しく理解することではじめて得られます。


心と身体の両面が整ったときに、真のやわらかさが得られます。

「やわらかさ」を得ると、人との関わり方が大きく変化していきます。その変化と共に自身の技も変わっていくので、面白いものです。

稽古における大切なテーマとして、ご一緒に磨いて参りましょう。

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2023/01/07

時と場所を超え、伝わる

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人を見て法を説け。お釈迦様は仏法を説く際、その人に応じた方法で説法したと言われます。

相手の性質や状況をよく理解した上で、その人に相応しいやり方で伝えることが大事ということです。心身統一合氣道の指導で私は多くの皆さんと関わっていますので、この故事を常に心に置いています。

同じ人間は一人として存在しませんので、伝え方も千変万化します。上手くいくことばかりではないので、いつも奥深さを感じています。


何ごとにも「ちゃんとしようとする人」がいます。

行き過ぎれば固く考えやすく、心の固さは身体の力みに繋がります。そんな人には「ちゃんとしなくて良いのですよ」とお伝えしています。

反対に、何ごとにも「ちゃんとしていない人」がいます。悪く言えばだらしがなく、それでは身につくものも身につきません。そんな人には「ちゃんとしないといけませんよ」とお伝えしています。

相手によってかける言葉は変わるわけですが、ここだけを切り取ると、あるときは「ちゃんとしなくて良い」と言っていて、またあるときは、「ちゃんとしなくてはいけない」と言っていることになります。

同じ人間の発言なのに、言っていることが変化しているわけです。

これが何を意味するか。

師匠から教わる内容は、弟子それぞれによって異なるということです。

自分が触れていたのは師匠の一部であり、決して全部ではありません。ここを間違えると「自分が最も理解している」という、思い上がりに陥ってしまうのです。

そもそも、弟子は自分のフィルターを通じて師匠に触れていますから、自分が理解していることは師匠の一部でしかありません。

だからこそ、他の人が、何に触れ、どのように教わったかを知ることは、師匠の実像を理解する上で重要な助けになるのです。


私は、藤平光一先生と同じ時代に生きて、学んで来た年長者の存在が、この上なくありがたく感じています。

藤平光一先生から直に指導を受けてきたベテランの指導者がいます。

この方は、お若い頃に古民家解体作業をしていました。泥だらけになり、何とか稽古場にたどりついたものの足は真っ黒でした。稽古が終わると、藤平光一先生は濡れタオルで自身の足を拭きました。

今まで一度もなかったことなので、この方は不思議に思ったそうです。

一週間後の稽古も汚れた足で参加したところ、また同じように拭いています。そこでハッと氣づいた指導者は、次の稽古で足を綺麗に洗って参加しました。すると、藤平光一先生は足を拭くことは止めたそうです。

相手を傷つけることなく、相手が自ら氣づけるように伝える。誇りを持って仕事する相手に、ただ足の汚れを指摘することはしなかったのです。

そこに、藤平光一先生が「何を大事にしていたか」が見えるのです。

この出来事に感銘を受けた指導者は、生涯にわたって藤平光一先生に師事し、現在でも活動を続けています。

こういったお話から、藤平光一先生はすでに逝去されているのに、時間と場所を超えて、いまこの瞬間に語りかけられる感覚になります。

本当に大切なことは、「人から人に伝わる」からでしょう。

いつか、それらを一冊の本にまとめたい、と考えております。

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2022/12/01

氣が出ている状態で行動する

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心身統一合氣道の稽古において、最も大事にしている原則があります。これは人を導く上でのプロセスを示しています。

 心身統一合氣道の五原則

  一、氣が出ている
  二、相手の心を知る
  三、相手の氣を尊ぶ
  四、相手の立場に立つ
  五、率先窮行(そっせんきゅうこう)

「氣が出ている」とは、氣が通う、と置き換えると分かりやすいでしょう。

氣は身体の隅々に通っています。氣が通っているときは身体を自在に使えます。身体に力みがあるときは氣は滞り、思うように身体を使うことができません。

氣は相手や周囲と通っています。氣が通っているときは周囲がよく見えます。心に執着があるときは氣は滞り、相手や周囲のことが分からなくなります。

氣が出ている状態だから、持っている力を発揮することができます。そして、氣が出ているから、技もできるのです。

故に、心身統一合氣道の五原則の最初が「氣が出ている」なのです。


心身統一合氣道の稽古方法の一つに、相撲のように相手と組み合った状態で、相手の道着や帯は持たずに、相手の身体に手を添えた状態で前に進む稽古があります。

シンプルですが、奥の深い稽古方法です。

人は、動き始めに乱れやすいもの。今まさに動作を起こそうとするその瞬間に、氣が滞ってしまうのです。乱れを自覚することができます。

「相手を押して動かそう」とすると、上体や腕、脚に力みが生じます。すると、氣が滞ってしまって、前に進めなくなります。

「どうやって動かそうか」と考え事が始まると、心に執着が生じます。すると、氣が滞ってしまって、やはり前に進めなくなります。

身体の感覚を確かめようとすると、そのとき心は隙だらけになります。虚脱状態になって、氣が抜けて動けなくなるので、これは論外です。

この稽古方法を通じて、いとも簡単に氣が滞ってしまう事実に直面し、「自分はこんなにも乱れやすかったのか」と驚くわけです。

「氣が出ている」状態で動けば、何の問題なく前に進めるわけですが、こんなシンプルなことが、人はなかなか出来ないのです……。


氣が出ている状態は、言葉で理解することは難しく、実際に体験して、身体で会得して、はじめて理解できます。

それでも、自身で確かめる基準はあります。

例えば、氣が出ているときは、全身、どこにも力みがありません。足先や指先など身体の隅々に氣が通っているので姿勢も盤石です。視野が広く、周囲のことを鋭敏に感じられる状態になっています。

心身統一合氣道の稽古では、氣のテストで氣が出ている状態を確認した上で、激しい動きでも維持できるように訓練をします。

トップアスリートが体験すると、皆、「調子がよいときはこういう感じです!」と言います。問題は、常にその状態を維持することが、自力だけでは難しいことにあります。

だからこそ、稽古を求め続けるのでしょう。


氣が出ている状態で動くことを、しっかりと身につけるためには、道場での稽古だけでなく、日常での訓練も不可欠です。

身体の状態だけではなく、心の状態にも直結しているからです。

「やならければいけないこと」があり、やるかどうか迷ってしまうとき、あるいは、嫌々やるときはありませんか。そのような心の状態に陥った瞬間に、すでに氣は滞っているのです。

「やるならやる」「やらないならやらない」と心を決めることが大事で、ひとたび決めたことは淀みなくスッと行うことです。

その積み重ねによって「氣が出ている状態で動く」習慣がつきます。


私は子どもの頃から、何をするにも心が決まらない性格でした。

内弟子修行で徹底的に鍛えられたのがこの癖の上書きでした。新たな習慣がついてから、不思議なことに技も上手くいくようになりました。

その変化を見守っていた藤平光一先生は、私に言葉をかけました。

「お前は、何かしようとするごとに、自ら氣を滞らせていたのだよ。氣が出ているから相手を理解できる。相手を理解するから導けるのだ。」

そして、このように続けました。

「修行とは、日々、日常で行うこと。いかなる状況下でも氣が出ているように、修行は一生、続けなさい」

それ以来、何をするにも、道場は勿論のこと、日常生活においても、「氣が出ている状態で行動する」ことを心がけてきました。

そして現在の自分に至っています。今となっては、私が心が決まらない性格であったことは誰も想像できないようです。


日常が変わるから技が変わる。まさに「生活の中の合氣道」なのです。

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2022/11/01

会得と体得

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心身統一合氣道の昇段審査は全国で実施し、私が立ち会っています。

従来の栃木(年3回)、大阪(年2回)に加えて、今年からは仙台、長野、名古屋、広島、福岡などで実施しています。

昇段審査を受験される皆さんは、大変な緊張感で臨んでいるようで、中には、頭が真っ白になって次の動きが分からなくなる方がいます。

「どうしたら頭が真っ白になるのを防げるのでしょうか」

こういった質問を受けることがあります。切実な思いからの質問です。

どれだけ気をつけていても、頭が真っ白になるときはなるものです。「頭が真っ白にならにように」と意識するほど、状態は悪くなります。

解決方法は明解で、頭が真っ白になったとしても自在に動けるように、何度も何度も繰り返して、「身体に入れておく」ことです。

頭で考えながら動く、あるいは意識しながら動く状態は本物ではなく、頭が真っ白になると思うように動けなくなってしまいます。

身体に入れてさえおけば、無意識のうちに動くことができます。つまり、「頭に頼らず動ける状態まで練り込む」ことが重要なのです。


ざっとの目安の話です。一度、体験することを" 1 "としましょう。

「見たことがある」「聞いたことがある」という状態と比較して、一度でも体験することは大違いです。それでも、ここでは" 1 "です。

一桁多い" 10 "を行うと、「こういう感覚なのか」と会得できます。会得には感動があり、これこそ稽古の魅力と言って良いでしょう。

しかし、せっかく得られたその感覚も、すぐになくしてしまいます。ひと晩寝れば、綺麗になくなっているでしょう。

会得したことが身体に定着するには、更に一桁多い" 100 "が必要で、そこまで練り込むと体得して、なくすことはありません。

一般的に、会得した段階で「出来た」と思い込んでしまう人が多く、なかなか上達しないという人は、会得しただけで体得には至っていないことに原因があるのかもしれません。

そして、「体得したことが、いつでも、どのような環境でもできる」ようになるには、さらに一桁多い" 1,000 "が必要です。私自身、これを稽古や訓練において練り込む最小の基準としています。

「体験」→「会得」→「体得」→「できる(身につく)」の各段階で、目安として、一桁ずつ多く練り込む必要がある、ということです。

身体に入れてさえおけば、大事な場面で裏切られることはありません。頭に入れておくだけだと、実に簡単に裏切られます……。


こういった大事な話は、事ある毎に若手指導者たちにもしています。

私の元で特訓している二人の若手指導者がいます。

一人は理解が早く、そう時間がかからずに会得できていたようでした。もう一人は理解がゆっくりで、なかなか会得もできません。時間をかけて、確かな感覚が得られるまで徹底的に相手しました。

会得できた瞬間は、それぞれに感動があったようです。

その後、しばらくして同じ二人が顔を合わせた機会に確認したところ、会得の早かった指導者はすっかり元に戻ってしまって体得しておらず、会得の遅かった指導者は着実に体得していました。

話を聞けば、会得の早かった指導者は「できた!」と思ったことで、その後、練り込む機会を十分に持たなかったようでした。

会得の遅かった指導者は、それまでに時間がかかったことから、「せっかく会得できた感覚を失わないように」と、指導を受けたその日から、毎日欠かさずに反復してきたようでした。

簡単に得たものは簡単に失いやすいと言いますが、まさにそれです。昔から言われる「運・鈍・根」がいかに重要か、ということでしょう。

圧倒的な実力差ができてしまったことに直面した会得の早い指導者は、「身につけること」に対する基本姿勢が変わりました。最も大事なことに氣がついたようで、これからの成長が楽しみです。


会得するから体得できます。会得は学びにおけるスタートであって、ゴールではありません。

身につけるために、共に磨いて参りましょう。

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2022/10/01

大事なことは入れておく

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内弟子修行の頃の話。

藤平光一先生から呼び出されて、大道場の控え室に向かいました。稽古直後のため、私は道着のままで駆けつけました。

藤平光一先生はすっと立ち上がり、私の道着の胸元を軽く持って、私の顔をじっと見ながら、にっこりとこう言います。

「儂はね、お前のことで、相当に辛抱しているんだよ」

自分が至っているとは思いませんでしたが、これはいよいよのこと。何のことか分かりませんでしたが、ひとまずは謝ることにしました。

藤平光一先生はこう続けます。

「氣に入らないことばかりだが、儂はお前に入れておく。入れておきさえすれば、それはいつか必ず出てくる。今は分からなくても、経験と共にいつか分かる日が来る。だから儂は、大事なことはお前に入れておく」

私はまだ何のことか分かりません。

「だから、お前も四の五の言わずに、言われたことは総てやれ!」

ああ、初めて分かりました。

私は、自分の頭で「意味がある」「意味がない」などと判断をして、関心がないことには積極的に取り組む姿勢を持っていませんでした。そのことを言われているのだ、と。

藤平光一先生のあまりの迫力に、今でも様子を鮮明に覚えています。

あれから25年の歳月が経ちました。その間に藤平光一先生は天寿を全うし、10年の月日が過ぎました。

そして今になって、当時、私の中に入ったものが出てくるのです。様々な経験を積み重ねて、ようやく理解できるものがあるのです。


私たちは常に成果を求めています。

指導者であれば、「これだけの時間と情熱を持って教えているのだから、相手がこのくらいにはなって欲しい」という我欲があります。

この我欲は本当にくせ者で、相手が自分の思い通りに良くならないと、焦りや苛立ちを覚えるのです。

相手が聞いていてもいなくても、理解できても理解できなくても、大事なことは入れておく。入れておきさえすれば、いつかは出て来るし、いずれ理解にも至る。

お子さんは特にそうです。

言うことを聞かないお子さんにイライラすることも多いでしょう。

でも、お子さんは聞いていないようで実はちゃんと聞いているもの。聞いていないから、理解できないから、すぐ良くならないからと、入れることを止めてしまったら、良くなることは決してありません。

大事なことは、繰り返し、繰り返し、入れてあげたら良いのです。

私も若手の指導者を育成しているとき、何度言っても変わらないと、ときに、イライラして語調が厳しくなるときがあります。

そのたびに、藤平光一先生の在りし日を思い出して、聞いていてもいなくても「大事なことは入れておこう」としています。

すると不思議なもので、何年かして突如、良くなることがあるのです。

思い返せば、藤平光一先生は誰に対しても同じようにしていました。それは指導者としての基本姿勢であったのでしょう。

太陽は、自分の気に入るものにだけ光を当てるようなことはしません。環境によって日向と日陰は生じても、太陽は等しく降り注いでいます。

これこそ「万有愛護」の精神であり、指導者にとって最も大切なもの。

言うことを聞いても聞かなくても、すぐに理解できてもできなくても、大事なことを入れ続けられる、そういう指導者を私は目指しています。

「お前のことで、相当に辛抱しているんだよ」

教える側のこの気持ちも、今となっては良く分かります……。

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2022/09/01

氣圧法の研究論文について

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心身統一合氣道会は世界24カ国で、約3万人が稽古しています。

アメリカ・オレゴン州に拠点をおく支部(Oregon Ki Society)では、心身統一合氣道の活動と共に、「氣圧法」の活動を精力的に行っています。

氣圧法は心身統一合氣道に基づく健康法で、氣が出ている状態で相手に触れ、リラックスすることにより血行が良くなって、様々な不具合が改善します。相手の痛いところは痛みが軽減し、固くなっているところは柔らかくなります。

簡単にいえば、不調を生み出す氣の滞りを解消するための大事な健康法です。心身統一合氣道において、重要な学びの一つです。

キャルビン田端先生(心身統一合氣道8段)を中心とした主要メンバーは、長年に亘って藤平光一先生から直に氣圧法を学び、海外では唯一、オレゴン州で氣圧法スクールを開講することを許されました。

多くの会員の皆さんが現地で氣圧法を学んでいます。


このたび、指導者であり、医師でもあるテリー・コッパーマン博士たちが氣圧法の臨床研究を進め、医学雑誌に学術論文が掲載されました。

雑誌にはインパクトファクター(IF)という格付けにあたる数値があり、IF3点以上ある信頼性の高い雑誌です。ここにご紹介いたします。

Beneficial Effects of Kiatsu with Ki Training on Episodic Migraine 


医学論文を精読することはなかなか難しいため、順天堂大学大学院医学研究科 公衆衛生学講座 主任教授の谷川武先生に、この論文の解説をお願いすることにしました。

谷川先生は「氣圧法が既存の代替医療に切り込むための歴史的な一歩で、西洋医学の厳密かつ実証的な方法論を踏まえて実験を行い、氣圧法が確かな効用を持つ可能性を示したことに大きな意義がある」と言われます。

この論文では、主に「片頭痛」について述べられています。

片頭痛は世界的に見ると有病率の高い神経疾患で、薬物療法には副作用が伴い、既存の代替医療にも費用が高額であったり、利用可能なクリニックが限られていたりする等の点で限界があるそうです。

氣圧法が片頭痛に悩む女性に持続的な効用をもたらし、片頭痛の頻度を有意に減少させ、QoLQuality of Life)スコアを改善し、薬の使用を減少させる有望なアプローチであることが明らかになりました。

特に大事なことは、氣圧法だけではなく、氣のトレーニング(心身統一道)と組み合わせることによって、効果を上げている点です。

氣圧法によって片頭痛の症状が改善され、さらに氣のトレーニングを継続することで効果が持続される可能性も分かりました。公衆衛生学を専門とする谷川先生は、特にこの点に着目なさっていました。


今回の研究は、氣圧法と氣のトレーニングを世の中に知らしめたいという、現地の指導者たちの情熱によってはじめて実現しました。

日本においても、谷川先生と連携して研究を進めていくことになりました。日本には長年培われた経験知がありますので、氣圧法と氣のトレーニングの効果をしっかり実証して参ります。

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2022/08/01

良いところを見つける

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ハワイでの講習会で、私が藤平光一先生のお供をしたときの話です。

アメリカ人の青年が母親と一緒に見学していて、講習が終わった後に藤平光一先生にところに挨拶に来ました。

お母様の話を聞けば、藤平光一先生が合氣道の普及のためハワイに長期滞在していた時期に、お子さんを道場に通わせていたようでした。

当時はひどい悪戯っ子で、お母様はたいへん手を焼いていて、道場に救いを求めていたそうです。

藤平光一先生もすぐに思い出して、会話に花が咲いていました。当時を知らない私のために、お母様が詳しく話をしてくださいました。

お母様が最初にお子さんの相談をしたとき、「息子は落ち着きがなくて悪戯ばかり、良いところが一つもありません」とこぼしたそうです。

それを聞いた藤平光一先生は、「どの子にも必ず良いところがあるのだから大丈夫。一度、道場に連れていらっしゃい」と、稽古に参加させて様子を見ることにしました。

実際に会ってみると、なるほど、ものすごい悪童で、さすがの藤平光一先生も手を焼いたそうです。その様子を見ていたお母様も「ほら!私の言った通りでしょう?」という表情……。

稽古後に藤平光一先生はそのお子さんと二人で話をすることにしました。てっきり怒られると思ったのでしょう。身を小さくしています。

 「君の良いところを見つけようと思ったが、今日は見つけられなかった。次こそ必ず見つけるから、また稽古にいらっしゃい!」

お子さんは怒られないと分かって安心したのか、「分かった!また来る!」と言って、元氣に帰って行きました。

その後、お子さんは稽古を始めました。良いところを見つけるたびに、藤平光一先生は「良いところを見つけたよ!」と声をかけ続けました。稽古を見学していたお母様は、そのやり取りを見守っていました。

そのうちに、少しずつ落ち着きを見せ、お母様を悩ませていた行動も少なくなっていきました。その変化をみたお母様は、自分が子どもの悪いところばかりを意識的に探していたことを自覚したのだそうです。

藤平光一先生が日本に帰国する際に見送りに来たお子さんは、泣いて、しばらく側を離れようとしなかったそうです。


それから20年が経ち、その悪童が立派な青年となっていたのでした。

お母様も大きくなった我が子を「親思いで自慢の息子です」と言われ、「あのときの経験が私たちの人生を変えました」と涙ぐみながら、藤平光一先生に感謝を伝えていました。

このときの親子の表情が、今でも私の印象に深く残っています。


「悪いところを直す」のではなく「良いところを伸ばす」、頭では理解できても、実行するのは簡単なことではありません。

良いところを伸ばすためには、時間と手間をかけて、相手の良いところをみつける必要があるからです。少し触れただけでは分からないことが多く、愛情をもって、注意深くその人をみることで理解できます。

相手を理解することではじめて相手は良くなります。そのために、「心を静める」「呼吸を静める」といった訓練が大きな助けとなるのです。

悪いところを指摘するだけであれば、そこまで努力は必要としません。手っ取り早く安易だからこそ、そこに陥りやすいのでしょう。しかし、悪いところを指摘するだけでは決して良くなりません。

心身統一合氣道の稽古においても同じこと、「悪いところを指摘する」だけでは指導とはいえません。指導とは「相手ができるようになるまで導く」ことであり、だからこそ指導者は常に学ぶ必要があるのです。


野球評論家の広岡達朗さんは、歯に衣着せない発言をされます。

広岡さんは「良いものは良い、悪いものは悪い」と忖度無く述べているだけで、「どうしたらその人が良くなるか」をよくみて、考え続けています。いったん育成すると心に決めた相手は、最後まで面倒をみます。

私は、そこに指導者としての「あるべき姿」を感じるのです。

ときに私自身も、相手の「足りないところ」に目がいきます。その都度、「良いところを見つける」基本に立ち返っています。

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2022/07/01

理解は氣で伝わる

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大学受験のために、駿台予備学校に通っていた頃の話です。

秋山仁先生(現:東京理科大学特任副学長)の数学の授業がありました。この授業は無類に面白くて、受験のための勉強が好きでなかった私も、欠かさず出席していました。

秋山先生の授業の特徴は、「なるほど!」「分かった!」と感じることで、数学の「奥行き」すら理解できたような気持ちになりました。

ところが、自宅に帰ってから自力で解こうとすると全くできません……。授業であれほど明解になったはずなのに、です。

この謎の現象を何度も繰り返すうちに、「ある事」に気がつきました。

秋山先生の授業は、先生自身が「理解する」感動で溢れていて、その「氣」が伝わって、私まで理解できたように感じていたのでした。

本当に理解するためには、それだけの努力や積み重ねが必要なわけですが、最初に「難しい」と感じたり、先生のこと自体が嫌いになったりすると、やる氣がなくなってしまいます。

言い換えれば、秋山先生はやる氣を引き出す授業をしていたのです。

後に知りましたが、秋山先生ご自身は学生時代は決して成績優秀でなく、受験も失敗し、研究者になってからの人生も挫折続きであったとのこと。予備校での指導も、研究者としての資金調達だったそうです。

秋山先生は、高校で出会った数学教師から「数学の楽しさ」を知って、数学の研究者を志すようになったかとのこと。なるほど、だからこそ楽しさが伝わる授業になるのだなと、深く納得しました。


私は心身統一合氣道の指導者です。奥行きのあることをいかに平易に伝えるか、日々、研究と工夫を重ねています。

もっとも氣をつけていることは、私自身に「理解する」感動があること。

その感動が、「氣」を通じて相手に伝わるからです。道場の指導でも、外部講習でも、企業研修でも同じ姿勢で臨んでいます。

本当に身につけるには弛まぬ努力と積み重ねが必要ですが、その前提には「自分にもできる!」と信じられることが不可欠です。「自分にはできないかも」などと思っていたら、その通りできなくなってしまいます。

「あなたならできる!」と示せる人こそ、真の指導者なのでしょう。

人は「理解できる」と氣が出ます。「理解できない」と氣が滞ります。

したがって、自分が伝えたことによって相手がどのような氣を発しているか、逐一、確認することで相手の理解度が分かります。

相手が理解できてないときは、こちらの伝え方に改善の余地があり、相手が理解できるように研鑽を重ねることで指導技能は磨かれます。

「相手の知らないことを、相手の知っている言葉で伝える」

これは、心身統一合氣道の指導において、もっとも大事な教えの一つです。話して伝える上でも、文章で伝える上でも、同じことです。これを徹底することによって、伝える側の理解も確実に深まっていきます。

私自身も常に心がけています。

ただし、「分かりやすさ」は、良い面ばかりではありません。

頭で理解しただけで「分かった」と思うと、身につけるための努力や積み重ねをしなくなる人が少なくありません。「人を見て法を説け」ということですが、このテーマはまた別の機会に……。


「渋滞学」を提唱する東京大学先端科学技術研究センターの西成活裕教授と対談し、2019年に『コミュニケーションの原点は「氣」にあり! 』という本を出版しました

西成先生が何事においても平易な言葉で語られるのが印象的でした。

対談の中で西成先生は、学生の理解を深めるために「難解なテーマを中学生でも理解できるようにプレゼンテーションする」課題を出していると言われていました。

なるほど、テーマを本当に深く理解していなければ決してできないことで、中学生が知っている言葉で語ることが求められます。

心身統一合氣道の指導者でいえば、「子供クラス」「幼児クラス」で磨かれるのと同じでしょう。「子供だから簡単な内容を伝える」という発想は誤りであり、それではお子さんも指導者も磨かれません。

お子さんの分かる言葉を使うからこそ、「自分にもできる」と思えます。

「伝わる」ということは、本当に奥が深いと思います。

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2022/06/01

呼吸を真似る

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10年以上は前でしょうか。

ものまねタレントの清水ミチコさんが、ある雑誌の書評ページで、藤平光一先生の著書『氣の呼吸法』を紹介していました。

それがきっかけで、清水さんのライブ映像を見ることにしました。とても楽しいライブで、いちばん印象に残ったのが、「ものまねは、呼吸なんですよ」という清水さんのひと言でした。

日頃から、稽古で私は「息を吐く」ことを突き詰めていましたので、「声を発することは、息を吐くことである」のは理解していました。

ただ、誰かの発声を真似するという観点がなかったので、それ以来、どうしたらその人の声になるか、研究を重ねて来ました。

まずは、清水さんがよく真似る瀬戸内寂聴さんや矢野顕子さんから。最初はまったく上手くいきません。どうやら「似せよう」という意識自体が邪魔しているようです。

そこで、いったん声のことを忘れて、呼吸だけみるようにしました。声ではなく、呼吸を真似するようにしたのです。

すると、あら不思議。男性と女性で音域の違いがあるはずのに、だんだん似て来るのです。なるほど、呼吸が大事なようです。

呼吸には特徴や癖のようなものがあって、抑揚がある人、力強い人、力みがある人、虚脱がある人など、実にさまざまです。

それが正確に再現されると、人は「似ている」と感じるのでしょう。

これが分かって以来、呼吸を注意深く観察するようになりました。これまで、どれほどの数の人々の真似をしてきたか分かりません。


こんな好奇心だけでして来たことが、後々、役立つことになります。

一つは「氣の呼吸法」の指導。

指導していると、自然に息を吐くことができない人が多くいます。これまで数多くの呼吸の「癖」を観察してきた経験から、「何が苦しくさせているのか」が良く分かるようになりました。

一つは「氣合いや号令」の指導。氣合いや号令にはその人の呼吸の癖が直に表れます。

通常であれば、発声は感覚的な表現で指摘されることが多いので、指摘を受ける相手はなかなか理解できません。

これまでの経験から、その癖を私が真似してみせることによって、「このようになっていますよ」とお伝えできるようになりました。

自分がしていることを外側からみると、人は癖を自覚することができます。自覚さえできれば、氣合いや号令は自ずと良くなっていくのです。

どうしたら出来るかを具体的に示せるようになりました。

「学ぶ」とは「まねぶ(真似ぶ)」と言われますが、本当にそう思います。


心身統一合氣道は、役者さんも多く学んでいらっしゃいます。

「発声」とは「呼吸」であり、心の状態は呼吸に表れていることから、感情の表現と呼吸の状態は密接な関係にあります。

それぞれの感情のときには、それぞれの呼吸の状態がありますので、その呼吸になりさえすれば、声は自然に出てきます。感情と呼吸に乖離があると、聞く者にとって違和感になるわけです。

身体のどこにも力みがなく、全身に氣が通っているとき、呼吸は自在になります。すなわち、発声も自在であるいうことであり、ゆえに、役者の皆さんも関心を持つのでしょう。

私自身も、人前でお話しをする機会が多くありますので、話す内容以上に、どのような呼吸で伝えるかを大事にしています。呼吸の状態によって、伝わり方は大きく変わるからです。

心身統一合氣道の技においても、呼吸の状態が極めて重要です。技がうまくいくときには、うまくいくような呼吸になっているからです。

上級者にとっては、呼吸を真似る(盗む)ことも、大切な稽古なのです。

私は今も、日々楽しんで研究しています。

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2022/05/01

新鮮な感動

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日本画家の小倉遊亀先生は105歳という長寿を全うされました。藤平光一先生に同行し、鎌倉にあるご自宅を訪問したことがあります。

遊亀先生は、藤平光一先生の師匠の一人である小倉鉄樹先生の奥様で、藤平光一先生が鎌倉に参禅するたびにお世話になったそうです。

私が訪問したときには、かなりのご高齢で、藤平光一先生との再会を涙を流して喜んでいらっしゃいました。

遊亀先生は車椅子の生活でしたが、毎日、筆は持ち続けていました。その日は、バナナを題材に静物画をお描きになっていました。

ご家族の話によれば、筆の進みがゆっくりなので、バナナが次第に弱り、黄色から茶色、茶色から黒色に変化していくそうで、遊亀先生のお描きになるバナナも、日々、変化していきます。

最終的に、ご自身の画の黒いバナナをみてひと言。

「不味そう……」

画を完成させるだけならば、似た形の新しいバナナに取り替えれば良いわけですが、見たままに、感じたままに、真っさらな心の状態で描き続けるお姿に衝撃を覚えました。

「画を描くとは何か」を深く考えさせられました。


その後、藤平光一先生の下で私の内弟子修行が始まりました。

大きな壁が立ちはだかり、総てが上手くいかなくなることがありました。それも一度ではなく、何度もその状態に陥ります。

あるとき、ふと小倉遊亀先生のことを思い出しました。

「そうか。自分は目の前のことを何も見ていない、感じていないのだ」

いまこの瞬間に、心が向いていなかったのです。

藤平光一先生が大事なもの、素晴らしいものに触れるときは、毎回、初めてのような反応を示していました。

お供をしていて「前回も同じことがあったのに、お忘れになっているのでは」と思うことがありましたが、実はそうではなかったのです。

毎回、真っさらな状態で心を向けているからこそ、藤平光一先生は新鮮な感動が得られていたのでした。

稽古においても、同じ動作を繰り返すうちに、「なぞる」ことを始めます。

私が物事に行き詰まるときは、過去の体験がすでに心にあって、目の前のことに心が向いていないときに生じることに氣がつきました。

一回ごとに真っさらな状態で心を使うから身につきます。

「稽古とは何か」を深く考えさせられました。


身体は鍛えれば自在に使えるようになります。心も同じであり、鍛えれば自在に使えるようになります。

同じことをするにも、毎回、真っさらな状態で心を向けることを訓練すると、悪い意味での慣れが生じません。毎回、新しい発見があります。

反対に、日常でなぞることを繰り返すと、慢性的な慣れが生じて、何をしても感動や発見がなくなっていきます。

人に何かをしてもらうことに慣れてしまうと、当たり前になります。すると、感謝の気持ちも持てなくなっていきます。

これは、とても恐ろしいことです。

経営者団体の外部講習で質疑応答をしたとき、一人の経営者から、「自分は何をしても感動が得られないのです」という相談を受けました。事業は順調、家族も元気で、何一つ問題がないにも関わらず、です。

お顔は土気色をしていて、生気がまったくありませんでした。

「本日の講習で体験されていかがでしたか」とお尋ねすると、「今日は楽しかったです」と答えます。そこで「それでは思い切って、稽古を始めてみませんか」とお誘いしました。

初めてのことに全身全霊で取り組むことが、真っさらな状態で心を向ける訓練になったのでしょう。そのうちに昇級審査に合格して、子どものように喜んでいらしたのが印象的でした。


今でも様々な瞬間に、私は小倉遊亀先生の画のことを思い出します。

さあ、今日も新たな一日です。

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