2019/11/01

「氣を出す」とは何か(1)

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「氣を出す」とは何か。

氣が滞ると、心を自在に使うことが出来なくなります。このとき、氣を出すことによって、氣の滞りが解消されます。氣を出すことによって、新たな氣が入ってくるからです。

このことは、「渋滞」の持つ性質ととても良く似ていることが、新刊での西成活裕先生との対談で分かりました。氣も流れである以上、流れには渋滞が起こりうるということです。

私は2歳くらいから心身統一合氣道の稽古をしていますが、子供の頃は、氣を出すことが良く分かりませんでした。「何を」「どうする」ことなのか具体的でなかったのです。

その頃、こんな出来事がありました。当時、有段者を目指して熱心に稽古なさっていた方がいました。

不運なことに、この方は交通事故に遭い、大きな怪我を負って、ほとんど動けない状態になってしまいました。当時の医療では、元通りに回復する見込みはなかったのです。

周囲の人たちが「もう稽古は出来ないだろう」と感じていた中、しばらくして、付き添いの方と共にご本人が道場に来られました。予定していた審査を受けさせて欲しい、と言われるのです。

技は全く出来ませんが、号令や氣合いならばかけられるとのこと。

当時の指導者たちは困惑して、この方だけ特別扱いは出来ないと、申し出を断るべきではないかと話し合っていました。藤平光一先生がこの話を耳にしたのは、ちょうどそのときでした。

事情を聴いた藤平光一先生は指導者たちを集めて一喝しました。

「お前たちは日頃、いったい何を教えているのか。この方は、事故によって技の動きは全く出来なくなってしまった。しかし、出来ないことに絶望するのではなく、出来ることを探し、それに全力を尽くそうとしている。これを、氣を出すというのだ。よく覚えておけ!」

審査を受験したこの方は、見事な号令をかけていました。

審査に立ち会った藤平光一先生はにっこりと「合格です」と言われ、氣を出すことを実践するこの方に最大の賛辞を送りました。それに対して、この方は「これからも氣を出していきます」と応え、その眼から大粒の涙がこぼれていました。

心身統一合氣道は「氣を出す」ことを目的に稽古をしています。当時も私は知識としては教えられていましたが、この出来事を通じて、「氣を出す」とは何かを学びました。

ときに、私たちは逆境に直面します。そんなときは、周囲は「出来ない」ことでいっぱいになっています。

そこで、出来ないことにとらわれて腐ってしまうのか、出来ることを探して、それに全力を尽くすかでは、人生は大きく変わることでしょう。たいへんなときだからこそ、「氣を出す」ことが必要なのです。

このことはその後、私が指導者になってから深く学ぶことになります。

次回に続きます。

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2019/10/01

誦句集「座右の銘」(3)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。


氣が通うために、もっとも重要なのは「氣を出す」ことです。氣を出すことで新たな氣が入って来て、氣が通うようになるのです。人間本来の状態に戻ることが出来ます。

流れにおいては、「出せば入ってくる」という性質があります。先に入れようとすると、流れはかえって滞ってしまうのです。

「氣」をバッテリーの様に捉えると、ためて消費するわけですから、少しでも節約した方が良い、という考えになるかもしれません。ここでいう「氣」は、そうではありません。氣が通うことによって力を得るのです。


原因は分からないのに、何となく調子が悪いときがあります。閉塞感やイライラなど、表れる症状は様々です。誰しも経験があるのではないでしょうか。そういうときは、氣が滞っていることが多いのです。

氣が通っているときに、心を自在に使うことが出来ます。言い換えれば、氣が滞っているときは、心を自在に使えません。心の働きが鈍くなることで、何となく不調を感じるのでしょう。

こんなときは、ただ待っていても良くなることはありません。「氣を出す」ことが重要です。


ただし、氣を出すといっても初めての方には良く分かりません。そのため、「心身統一の四大原則」があります。氣を出すとは具体的にどういうことかを置き換えているのです。

  心身統一の四大原則

  一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
  二、全身の力を完全に抜く。
  三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
  四、氣を出す。

「心身統一の四大原則」はよく、山頂に至る四つの異なる登り道に例えられます。どの道を用いても、最終的に同じ目的地にたどり着きます。

例えば、氣を出すとは「心を静める」ことと同じということです。また、全身リラックスして身体の隅々まで滞りのない状態であり、落ち着いている状態でもある、ということです。

その人によって、あるいは、そのときの状況や環境によって、もっとも取り組みやすい方法を選べば良いのです。

四大原則は、一つが備わっているときは、他の三つも備わっており、一つが備わっていないときは、他の三つも備わっていません。四つ総てを同時に行う必要はなく、どれか一つを行うことです。


ご参考までに、それに対して、「心身統一合氣道の五原則」は、人を導くための具体的なプロセスです。同じ原則でも、四大原則とは性質が異なるので注意が必要です。

  心身統一合氣道の五原則

  一、氣が出ている
  
二、相手の心を知る
  三、相手の氣を尊ぶ
  四、相手の立場に立つ
  五、率先窮行(そっせんきゅうこう)


道場での稽古は「氣を出す」ことを目的に技を練っていきます。そのため、稽古することで、氣の滞りが解消されやすいのです。氣が滞っているときほど、稽古をすべき理由がここにあります。

三回に渡って、誦句集の「座右の銘」を解説して参りました。座右の銘を正しく理解することで、正しい目的で稽古を出来ます。

皆さんの理解が深まりましたら幸いです。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/09/02

誦句集「座右の銘」(2)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。

心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

ここで初めて「心身を統一する」という言葉が出て来ました。

心身統一合氣道の「心身統一」で、心身統一とは「天地と一体である」ことを指します。

しかし、多くの人が「心と身体の統一」と間違えて捉えています。もし、この理解だとしたら、自分の心と自分の身体の統一なので、「個」のなかで完結することになってしまいます。

「天地と一体である」とは、外界とつながりを持つことであり、それによって周囲のことを理解し、導いていくことが出来ます。心身統一合氣道の稽古の根幹です。

「心と身体の統一」という理解は、まさにそれとは逆なのです。稽古の目的を誤って理解すれば、稽古の方法が変わってしまいます。


私たちは天地の一部の存在で、そのつながりによって生きています。

例えば「呼吸」も、天地とのつながりの一つです。体内に空氣を取り入れ、全身に酸素を送り、二酸化炭素を回収し、また体外に出します。このつながりが滞ってしまったら、たいへんなことになります。

天地とのつながりがなくては生きることは出来ないにも関わらず、私たちはときに、行き過ぎた「個」の意識を持つことによって、あたかも自分独りで生きているような錯覚に陥ります。

そんなときに、様々な不具合が生じるのです。

「天地と一体である」とは、特別な状態ではなく、本来の状態であり、自然な状態であるということです。

誦句集の一文をより丁寧に記述するのであれば、こうなるでしょう。

心身を統一し、即ち、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。


わたしたちは「氣」を通じて、天地とつながりを持っています。

そのつながりが確かなとき、氣は自由に行き来して活発な状態にあります。その状態を「氣が通っている」と言います。

つながりが不確かなとき、氣は自由に行き来出来ず停滞した状態にあります。その状態を「氣が滞っている」と言います。

海中で、海の水を両手で囲うとします。自分の手の中にある水は、「わたしの水」と言えるかもしれません。しかし、実際には「海の水」を自分の手で囲っているに過ぎません。

手で囲った水が海の水とつながりを持ち、自由に行き来していれば、手で囲った水が淀むことはありません。しかし、水の行き来が停滞すると、手で囲った水は淀んでいきます。

「氣」も同じです。

天地の「氣」を自分という存在によって囲っていると考え、氣が自由に行き来していれば、氣が淀むことはありません。

しかし、天地とのつながりが弱くなると、氣は自由に行き来を出来ず、次第に淀んでいくことでしょう。

氣の滞りは、心身の不調や人間関係の問題となって表れるので、「氣が通っている」ことが最も重要だということです。

そして、心身統一する(天地と一体である)ための具体的な方法が、「心身統一の四大原則」なのです。

次回に続きます。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/08/01

誦句集「座右の銘」

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心身統一合氣道では、稽古の始めに全員で「誦句集(しょうくしゅう)」を唱和します。心身統一合氣道の創始者である藤平光一先生が、心身統一合氣道の重要な教えを22の項目にまとめたものです。

その中でも最初の「座右の銘」は、心身統一合氣道を学ぶ者にとって、修行の目的が明確に記された最も重要な内容です。多くの皆さんから質問を受けることから、ここで解説したいと思います。

「座右の銘」の全文は下記の通りです。

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

座右の銘は、「万有を愛護し...」から「...眼目である」までの前半と、「心身統一の四大原則」以降の後半から成り立っています。前半部分には「何をすべきか(what to do)」が記されていて、後半部分には「どう実行するか(how to do)」が記されています。

それでは一文ずつ解説して参ります。

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。

天地の心の「心」とは、この場合は「性質」を表しています。「天地」とは、今の言葉に置き換えれば「大自然」を指します。平易に説けば、天地の心とは「大自然の性質」といえます。

大自然の性質そのものに、「プラス」も「マイナス」もありません。生命が始まるのも、生命が終わるのも、同じく大自然の性質です。私たちは、その大自然の性質に身を委ねています。

他方で、私たちの心には「プラス」と「マイナス」があります。大自然の性質を受け入れて、プラスに活かすことが出来ます。

プラスに向かうのか、マイナスに向かうのかは最も重要な選択です。

プラスの人生を望むのならば、プラスに向かうことが自然であり、マイナスに向かうことは不自然です。それはちょうど、北に行きたいならば北に向かって歩むことと同じです。北に行きたいのに南に向かったら到達できません。

「万有を愛護し、万物を育成する」大自然の性質をプラスに活かして、自らの心のあり方としよう、ということです。

 さて、「万有を愛護する」について、もう少し補足したいと思います。

「万有」と「万物」の意味は、現代の国語辞典で調べるとどちらも、「宇宙に存在する総てのもの」とあり、違いが良く分かりません。誦句集では、「万物」とは「宇宙に存在する総てのもの」、「万有」とは「総てのものが持つ性質」を指しています。

「万有を愛護する」とは、それぞれが持つ性質を良くみることです。

私たちが人をみるとき、「長所」「短所」という言葉を用いますが、それはその人の性質を周囲が主観的に判断したもので、実際に「長所」「短所」という性質があるわけではありません。事実、長所と短所は表裏一体で、ちょっとしたきっかけで、短所が長所に変わります。

ある子供クラスでの出来事。

小学校高学年の男の子は、稽古中にとても大きな声を出します。一緒に稽古する子供たちは、その子のことをうるさく感じたり、怖がったりしていました。若手の指導者が「うるさいから静かにしなさい」と注意すると、その子はふてくされ、さらに大きな声で周囲に迷惑をかけます。

そんなときに先輩の指導者がやって来ました。

事の詳細を聞いた先輩の指導者は、男の子のところに行って、稽古する様子をしばらく見守っていました。稽古後、先輩の指導者は男の子のところに歩み寄り、「君は声が大きいね!すごいね!」と声をかけました。てっきり怒られると思っていた男の子はキョトンとしています。

先輩の指導者はこう続けます。

「それだけすごい声なのだから、体操の号令をかけてみようか」。やる氣になった男の子が号令をかけると、道場の隅々まで声が響き渡ります。一緒に稽古していた子供たちも「すごい!」と賞賛しました。これをきっかけに男の子は無駄に大声を出さなくなりました。

「声が大きい」というのはそのお子さんが持つ「性質」です。その性質が不適切な場面や方法で発現すれば、「短所」になってしまいます。適切な場面や方法で発現すれば、「長所」にもなりうるわけです。

声が大きいという性質に「短所」というラベルを貼ってしまっては、もう、そのお子さんをプラスに導くことは出来ません。性質を否定することは、存在を否定することと同じだからです。若手の指導者は、このやり取りから大切なことを学んだようでした。

人をより良く導くためには「万有愛護」の心が不可欠なのです。

次回に続きます。

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2019/07/08

Ki principles

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心身統一合氣道の稽古は「氣」に基づいて行います。英語で指導する場合には、「Ki principles」と表現します。

日本語に直訳すれば氣の原理ですが、この場合は「原理」というよりも、「働き」とした方が理解しやすいかもしれません。

「Ki principles」で特に重要なのが下記の三つです。

  •  When you are one with the universe, Ki naturally flows.
    天地(自然)と一体であるとき、氣が通う

  • When Ki flows, you can use your mind freely.
    氣が通っているとき、心を自由に使うことが出来る

  • When you extend Ki, new Ki comes naturally.
    氣が出ているとき、新たな氣が入ってくる

 一つずつ、簡潔に解説して行きたいと思います。

「天地(自然)と一体であるとき、氣が通う」

技の稽古において、相手を「投げよう」「コントロールしよう」とすると、相手とぶつかってしまい、結果として投げることが出来ません。これは自分と相手がバラバラの存在になっていることが主な原因です。相手と一体になって動くとき、相手とぶつかることなく投げられます。

ただし、相手と一体になるとは「相手に合わせる」ことではありません。十人いれば十人異なり、総ての人に自分を合わせることなど不可能です。相手に合わせようとすると、氣は滞って理解出来なくなります。

自分という存在が、外界(周囲)と一体であることによって氣が通います。そして、氣が通うから相手の状態を理解して導くことが出来ます。

物を持つときも「氣が通う」ことが重要です。剣をコントロールする意識が強いときは、自身と剣がバラバラになって剣に氣が通わなくなります。自身と剣が一体のとき、氣が通い、自由自在に使うことが出来ます。それが「筆」であっても「ゴルフクラブ」であっても同じことです。


氣が通っているとき、心を自由に使うことが出来る」

氣が通っているとき、心を向けるべきことに向けることが出来ます。氣が滞っているとき、心は一つのことに執着してしまうのです。すると、本来使うべきことに使えなくなってしまいます。

嫌なことがあったとき、それが氣になってしまって、目の前のことにまったく心が向かないという経験がありませんか。これは、嫌なことがあったことで氣が滞り、本来使うべきことに、心をまったく使えなくなっているということです。

この状態を打破するには、氣の滞りを解消するしかありません。


「氣が出ているとき、新たな氣が入ってくる」

氣が滞っているとき、氣を引くとさらに滞りは大きくなります。辛いことがあったとき、誰とも関わらず独りふさぎ込んでいると、さらに辛くなっていくものです。

氣の滞りを解消するには、氣を出すことです。氣を出すことによって、新たな氣が入ってくるからです。

精神的にたいへんなときに、思い切って行動を起こしたことで、調子が戻ったというご経験はありませんか。あるいは、誰かに話を聴いてもらうことで心が楽になった、という経験もおありではないでしょうか。

「行動を起こす」ことも「話をする」ことも氣を出すことであり、それによって新たな氣が補給されるから元氣になるのです。万物の流れにおいて滞りが生じているときは「入れる」よりも「出す」ことが重要ですが、「氣」もまた同じです。


このように「Ki principles」を正しく理解して、日常で活用をすると、自分の持つ能力を存分に発揮出来るようになります。心身統一合氣道の稽古は、「Ki principles」の実践なのです。

本年10月に新たな本を出版することになりました。今回のテーマは、まさにこの「Ki principles」です。詳細が決まりましたら、またこのブログで告知いたします。

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2019/06/03

相手の立場に立つ

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先代の藤平光一先生はたいへんな酒豪でした。私は酒豪とは程遠いので、少量のお酒を美味しく頂きます。

農口尚彦研究所」という石川県の日本酒があります。

杜氏の農口尚彦さんは現在86歳。82歳で引退されましたが、2年間のブランクを経て、酒造りに復帰されました。「若手杜氏の育成」という大きな目標を持った復帰でした。

あるご縁で、私は杜氏のつくられたお酒を、杜氏とご一緒に頂いたことがあります。私のような若輩に杜氏自ら次々と御酌をして下さるのですが、不思議なことに、杜氏はほとんどお酒を召し上がりません。

私からお酒をおすすめしようとすると、丁重に遠慮なさって、にっこりと「私は下戸で、酒はほとんど飲めないのです」と言われます。

私には「杜氏=お酒を飲める人」という先入観があったので、このお言葉に驚いてしまいました。

そして、お酒を楽しむ私に杜氏は率直な感想をお尋ねになります。酒造りの知識のない私の言葉であっても、真剣にお聴きになります。

後から知ったことですが、杜氏はお酒を飲む人の話しを直に聴き、それに基づいて酒造りをなさっているとのこと。試飲会でも、杜氏自ら最後までお客さんの相手をされるそうです。

ご自身がお酒をたくさん召し上がらないからこそ、相手がどのように感じているか、相手がどう受け取っているかをとても大切になさっているのでしょう。

杜氏は、これまでの酒造りをノートに記録を取っているそうです。ご自身の経験に基づき、酒造りの普遍性・再現性を高めています。その上で、実際にお酒を飲む人と向かい合っています。

また、酒蔵では日々身を粉にして、麹菌・酵母菌と向かい合っています。杜氏は「菌はものをいわないから」といわれます。菌を中心とした生活をしているといっても過言ではないでしょう。

杜氏として、「相手の立場に立つ」ことを実践されていたのでした。

経験や実績を積み重ねていくと、人は「理解した」氣になるものです。ひとたび理解した氣になると、自分の流儀を押し通すようになり、相手と向かい合うことが疎かになります。

それが、成長発展の最大の妨げになるのです。

これは、指導の現場にも通じることです。

相手がどのように感じているか、相手がどう受けとっているか、「相手の立場に立つ」ことによって指導技能は磨かれていきます。それがなければ、相手不在の押しつけの指導になってしまいます。

指導の経験や実績が増えれば増えるほど陥りやすいところで、私も肝に銘じなければいけない、と思いました。これを防ぐためには、「天地を相手にする」姿勢に立ち返るしかありません。

杜氏とご一緒させて頂いた時間は、掛け替えのないものとなりました。最も大事な姿勢を再認識するきっかけを頂きました。

先月、北陸に行く機会がありました。そこで、石川県小松市にある「農口尚彦研究所」の酒蔵まで足を伸ばすことにしました。

酒造りにいちばん大切なものは自然環境といわれています。水も空氣もきれいなこの地域は、観音下町(かながそまち)といい、日華石(にっかせき)の産地としても有名です。

酒蔵には、茶室をコンセプトとした「杜庵(とあん)」があります。茶室と同様の四畳半の広さで、12席のカウンタースペースがあり、四季折々の里山の情景を愛でながらテイスティングを出来ます。

その杜庵で、「酒事(しゅじ)」という日本酒体験をして来ました。五感が存分にはたらく、言葉では表すことが出来ない素晴らしい体験でした。

今はシーズンではなく酒造りを見ることは出来ませんでしたので、今度はシーズン中に再訪したいと思います。

心から美味しいと感じるお酒です。


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2019/05/07

滞りを持たない

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東京大学先端科学技術研究センター西成活裕教授は「渋滞学」という学問を確立したことで有名です。

10年以上にわたって取り組んで来た研究内容をまとめた学問で、「渋滞学」という名称は、西成先生が独自に命名されたものです。

現在では道路の渋滞に限らず、社会生活の中の様々な流れで起こる渋滞について、国や日本を代表する企業と共同研究をなさっています。約3年前から心身統一合氣道を熱心に稽古なさっています。

そんな西成先生、10連休となったこのゴールデンウィーク中は、連日、渋滞の解説のためにテレビ各局から引っ張りだこでした。

番組で西成先生が言われていましたが、連休中の渋滞は、車の数が多すぎることによって生じているので、混む時間帯を避けるしかないようです。しかし、そこまで車が多くない場合に起こる自然渋滞については、私たちのちょっとした心がけで回避することが出来ます。

「渋滞」は、最初の一台のブレーキ(減速)に端を発しています。後ろに続く車が十分な車間距離を取っていないとブレーキが連鎖し、それがさらに後方の車に伝わって渋滞となっていきます。

特に、勾配4%程度の緩やかな上り坂だとドライバーが氣づかず、無意識のうちに車が減速して、さらに車間距離が不十分だと、後続の車がブレーキを踏むことになり渋滞が起こるとのこと。

どうやら「無意識」と「車間距離」がキーワードのようです。「無意識」はともかく、「車間距離」については私たちの心がけ次第でどのようにでもなるわけですから、やらない理由はありません。

ある番組では、上空から渋滞の先頭を撮影していました。それは、高速道路の入口で車が本線に合流する場所で、三車線の流れが二車線に狭まってしまうことで生じていました。とても興味深い映像でした。

さて、「渋滞」という言葉を、「滞り」に置き換えて考えてみましょう。

どれだけ長い渋滞にも、その始まり(原因)があるように、「氣」の滞りにもその始まりがあります。

大きな氣の滞りがいきなり生じることはほとんどありません。最初はちょっとしたことで氣が滞り、それが連鎖することで、より大きな滞りに育っていくのです。

そのため、小さな滞りのうちに解消することが重要です。勿論、滞りそのものが生じなければ良いわけですが、様々な人間関係で生きる現代においては現実的ではありません。

一つのことが上手くいかないと、そこに氣が滞ってしまって、心が使えなくなってしまうことがあります。

指導先の学校で、ある学生と稽古していたときのことです。この学生には、仲良く一緒に稽古している友だちがいました。あるとき、その友だちから自分が氣にしていることを言われ、とても嫌な氣持ちになってしまったようでした。

友だちのひと言によって、氣が滞ってしまったのでしょう。

すると、氣が滞った状態で友だちと接しているので、今度は、その友だちの言うこと、やること総てが氣になってしまって、「もう一緒に稽古したくない」と言うのです。

私は直接この話題には触れず、稽古を始めることにしました。稽古そのものが「氣を出す」ことですから、それによって、氣の滞りが解消することが少なくないからです。

稽古の後、この学生はバツが悪そうに私のところにやって来て、ひと言、「氣が滞っていました」と言いました。稽古して氣が出たことで、自分の状態を認識できたのでしょう。

私は「稽古で氣の滞りが解消したのであれば良かったですが、滞りの原因を放置してしまったら、またすぐに戻ってしまいます。どうしたら良いと思いますか」とその学生に尋ねてみました。

学生は考えた末、自分が傷ついた事実を友だちに冷静に伝えました。それを聞いた友だちはとても驚いて、すぐにこの学生に謝りました。その友だちとしても自分の意図とは違って伝わっていたようでした。

氣の滞りが解消してお互いにスッキリしたのか、その後は何事もなかったかのように一緒に稽古するようになりました。この二人にとっては、大事な人生経験となったようです。

人間関係においてちょっとした氣の滞りを持つと、どんどん大きな氣の滞りに育っていきます。そして氣が滞った状態で物事にあたると、他のことまで上手くいかなくなります。これは恐ろしいことです。

だからこそ、氣の滞りは、一瞬たりとも持つべきではありません。特に、家族・友人・仕事のパートナーなど、身近な人だからこそ、ちょっとした氣の滞りが生じた瞬間に対処することが重要なのです。

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2019/04/01

天地を相手に生きる

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藤平光一先生は「天地を相手に生きる」ことを大切に説きました。

私たちは、自分自身の経験に基づき、様々な価値観を持っています。勿論、それは必要なものではありますが、自分の「物差し」なので、物差しそのものがズレてしまうと大変なことになります。

しかも、その「ズレ」は日々、少しずつ進んでいくものです。

いちどにたくさんズレれば、その変化に氣づくことは容易です。しかし、日々少しずつ進んでいくズレは氣づくことが難しく、突然、大きな不具合が生じて、はじめて自覚することになります。

元々は謙虚であった人が、業績を上げるうちに傲慢になっていって、周囲の心ある人が去っていく、ということがあります。

成功を繰り返すうちに、過去に縛られてワンパターンに陥ったり、慢心が生じたりして、致命的な失敗をすることもあります。

最初は「これはいけないことだ」と認識していたとしても、「このくらいは許されるだろう」と自分から許容範囲を広げていき、最後はとんでもない結果になってしまうこともあります。

いずれも、自分の物差しが少しずつズレていくことで生じるもので、自分の物差しをあてにしてはいけない、ということです。

これを防ぐのが「天地を相手に生きる」ことです。

天地とは「天」と「地」ではなく、「天地自然」を指しています。そして「天地を相手に生きる」とは、自分の物差しを基準とせず、天地自然の理を基準に置いて生きることを意味しています。

この度の新刊でも、堀威夫さんは「座標軸を常にゼロに置く」とか、「自分ではなく、お天道様が決めている」といった表現で、自分の物差しではかる危険性について触れていらっしゃいます。

先週あるご縁で、二日間ほど自然の中で過ごす機会がありました。

パソコンやスマートフォンを手放し、ただ自然を感じて過ごす時間は、余分な考えが削ぎ落とされ、大事なものだけが残る感覚がありました。複雑に考え過ぎていたものが紐解かれていくような感じでした。

そして、もっとも大きい氣づきは、自然の中から現実社会に戻ってから訪れたように思います。

私自身もいつの間にか自分の物差しで物事をみるようになって、少しずつズレてきていたようです。何か一つのことに対してではなく、総てのことに対して、だからです。

心身統一合氣道の稽古は、天地自然の理に則して行うものです。自然な姿勢、自然な動きは、自然な心の状態から生まれます。堀さんも、自然体を身に付けるために稽古に通っていると言われます。

私自身も、その基本に立ち返りたいと思います。

「氣」の新書シリーズには毎回、各分野の方との対談があるため、出来上がった本を読み直してみると、自分自身も学ぶことばかりです。今回の堀さんとの対談は、本当に奥行きのあるものになりました。

心身統一合氣道を稽古なさっている皆さん、心身統一合氣道会に関心のある皆さんには、ぜひお読み頂きたいと思います。

心身統一合氣道会は新年度を迎えました。皆様と共に稽古に励んで参ります。どうぞ宜しくお願いいたします。

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2019/03/01

意識する、ということ

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自分が自然にしていること、出来ていることを言葉にすることで、パフォーマンスが悪くなることがあります。それまで無意識で出来ていたことを「意識」することによって、同じように出来なくなってしまうのです。

私はこれを7年前に経験しました。次世代の指導者を集中的に育成するため、3年間ほど特別な機会を設け、それぞれの指導者と頻繁に接していたときのことです。

「氣」や「心」のように、本当に大事なものには「形」がありません。
その大事なものを伝えるために、私自身で言葉になっていないこと、感覚的に会得していること、自分が無意識に出来ていることなどを、一つずつ整理して言葉にしていく必要がありました。

「変化」は間もなく表れました。

言葉にしたことによって、それまでと同じようには出来なくなっていたのです。「無意識」の領域から「意識」の領域に持ち出してしまったのでしょう。

すっかり不調に陥ってしまいました。それでも育成は続けなければいけませんので、ひどい不調に耐えながら、これからの指導者を育てる「基礎」を作り上げました。このときの苦しさは経験したことのないものでした。

さいわいなことに、言葉にしたことをあらためて訓練することにより、私の不調は解消され、また元に戻っていきました。おそらく「意識」の領域から「無意識」の領域に戻ったのでしょう。

こういったことは、日々の稽古でも起きています。

例えば、「バランスを取る」という意識がそうです。「自然な姿勢には自然な安定がある」のですから、本来であれば、バランスは意識して「取る」のではなく、自然に「取れる」はずです。
しかし、意識してバランスを取ってしまうと逆に乱してしまうのです。

本当にバランスが取れているときは、特別な感覚はないものです。もし、自分が「バランスを取っている」と意識しているとしたら、それは本物ではありません。実際のところ、バランスが乱れているから意識するのです。

日頃から、つま先立ちをして足先まで氣が通うように訓練しておくと、それが習慣になって、いつの間にか自然にバランスが取れています。氣がついたら「よろめかなくなっていた」「転ばなくなっていた」
「疲れなくなっていた」と感じるのであれば本物です。

これは姿勢の話だけではなく、物事におけるバランス感覚も同じです。バランス感覚が良い人は、意識してバランスを取ってはいないのです。極めて自然なことなので、バランスを取っている自覚もありません。

トップアスリートを指導していると、「なぜそれを出来るのか」をアスリート自身がまったく言葉に出来ないことがあります。

私自身が経験から学んだ通り、自然に出来ていることを意識させると、パフォーマンスはかえって悪くなってしまいます。そのため、指導の際には細心の注意を払い、「無意識」の領域のものは「無意識」のまま伝わるような工夫をしています。

私たちは、まずは「無意識」でしていることを「意識」して訓練します。しかし、これだけでは「身についた」ことにはなりません。「意識」して出来ることを「無意識」で出来るように訓練が必要なのです。

「稽古」とは、私はこのプロセスを繰り返すことだと捉えています。

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2019/02/01

角度を変えてみる

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私は子どもの頃、12年ほどピアノに触れる機会がありました。藤平光一先生のお弟子さんにピアニストがいらして、直に教えて頂いていました。私には勿体ない先生で、不良生徒でしたが、そのときに教わったことが今になってようやく理解出来るようになってきました。

例えば「心を静める」こと。レッスンの前にピアノを前に座り、心を静めることを徹底されます。「心が身体を動かす」のですから、心の状態は音にも影響していて、心の状態が乱れるとピアノの音も乱れます。

心が静まっていないと、自分の奏でる音を聴くことも出来ません。心が静まるのを確認してからはじめて、鍵盤に触れることが許されます。この訓練のお陰で、何かを行うときに心の状態をみる習慣が出来ました。それは心身統一合氣道の稽古に直結していました。

例えば「氣を切らない」こと。一つの音の終わりは、次の音の始まりです。しかし、一音一音で氣が切れると、旋律が乱れてしまうのです。音のない瞬間も氣が切れることはなく、それも音楽の一部です。「間(ま)」についても、この頃に感覚が磨かれました。

私は性格的に氣を切りやすかったようで、その度に注意を受けましたこのお陰で、物事の終わりに氣を切らない習慣が出来ました。「一つの技の終わりは次の技の始まり」という感覚もそこで得ました。

例えば「無限小に静まる」こと。一つの音は、ひとたび発せられると、無限小に静まっていきます。ひとことで言えば「静止状態」に帰するのです。この静止がないと、落ち着きがなく上擦った演奏になります。これは当時はまったく理解出来ず、今になってようやく分かって来ました。

一つの動作の後が静止することで、次の動作に繋がっています。「静」から「動」が生まれ、「動」から「静」に戻っていく。技における「静動一致」の理解のルーツは、おそらくここにあったのだと思います。

「合氣道の後継者を育成するのに、なぜピアノを学ばせるのですか」と藤平光一先生に質問した人がいたそうです。当然の疑問でしょう。

正面からみているだけでは分からないことも、角度を変えてみることで、はじめて分かることがあります。これは、異なるものを自分なりに混ぜる姿勢では絶対に得られません。異なるものに共通する土台を理解する姿勢だからこそ得られます。

藤平光一先生は、私にそれをさせたかったのでしょう。また、音楽における私の先生はその目的に最適の方であったのでしょう。

ピアノには、もう20年近く触れていません。とてもではないですが、どなたかに聴いて頂く状態にはありません。それでも最近では、周囲に誰もいないときに本部宿泊研修施設にあるグランドピアノに触れています。今では、音を聴いて自分の心の状態がよく分かります。

以下は余談です。

そんな訳で、日頃からピアノ楽曲をよく聴きます。

今であれば、20年前に録音された横山幸雄さんの超絶技巧練習曲集(リスト)を、あらためて聴き込んでいます。S.139第8番「狩り」は何度聴いたか分かりません。

ポリーニ・コレクション(ショパン)もそうです。マウリツィオ・ポリーニによるエチュード(練習曲)やバラードを良く聴きます。バラード第4番Op.52は特にそうです。

クリスティアン・ツィマーマン演奏によるピアノ協奏曲(ショパン)も好んで聴きます。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮による1978年・1979年録音版です。

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