カテゴリー「03-メールマガジン記事」の157件の記事

「藤平信一メールマガジン」に掲載された記事です。

2017/07/03

挨拶の意味

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藤平信一です。

つい先日、日本国内でのこと。ある場所で、道着姿のお子さんを見かけました。同じく道着姿の大人が「こんにちは」とお子さんに声をかけましたが、お子さんはチラッとその人を見て、挨拶をせずに行ってしまいました。大人は苦笑いしていました。

先を急いでいたのか、あるいは恥ずかしかったのかは分かりませんが、「挨拶が出来ない」のでは、とても武道を学んでいるとはいえません。実はこれ、本会(心身統一合氣道会)での出来事です。

すぐに指導責任者にコンタクトを取り、事情を聴くことにしました。どうやら、つい最近、稽古を始めたお子さんであったようですが、責任者は挨拶について指導が不足していたことを謝罪していました。

「挨拶」は人間関係の基本であることは、誰もが知るところでしょう。その語源が禅のことばであることも有名なので、ここでは触れません。

「氣」に基づく挨拶とは、すなわち「相手の存在を認める」ことです。挨拶がないことによって、人が傷ついたり、怒ったりする理由は、「存在を否定されている」のと同じことだからです。だからこそ、挨拶一つで氣は通い、挨拶がないと氣が断絶するのです。

地域によっては「見知らぬ人に挨拶しないように」と教えるそうです。物騒な世の中で、このように考えるのは合理的なようにも見えますが、実際には挨拶がないことで、かえって身を危険に晒すこともあります。

「あなたをきちんと認識していますよ」と相手に知らせることにより、相手のおかしな行動を抑制する効果もあるからです。「見知らぬ人と話をしない」「見知らぬ人に付いて行かない」のは当然で、挨拶とは分けて考えるべきではないかと私は考えています。

せっかく心身統一合氣道を学ぶのであれば、まずは挨拶の徹底から。挨拶が出来ていなければ、道場での稽古に意味がありません。あらためて本会全体で、しっかり挨拶に取り組んで行きたいと思います。

「挨拶」と良く似ているのが「返事」です。

「こんにちは」と声をかけるのは挨拶、「こんにちは」と応じるのが返事です。同じ「こんにちは」でも意味が異なります。

挨拶とは、自ら積極的に相手に心を向けて「存在を認める」ことですが、返事とは、それに応じているだけであることが多く、世の中には「返事」のことを「挨拶」と勘違いしている人もいます。

「挨拶」することを負担に感じる人も少なくありません。

特に、仕事でミスをしたとき、物事が上手く行かず落ち込んでいるときは、氣が滞っているので、なかなか自分から心を向けられないものです。声をかけられたら返事をする消極的な態度で、挨拶を避けることになり、ますます氣が通わなくなる悪循環に陥ります。

挨拶が「特別なこと」だと、調子が悪いと出来なくなってしまいますが、日頃から「当たり前のこと」として習慣にしておけば良いのです。それによって、無理なく挨拶が出来るようになります。

若手の指導者の育成において、ときに私は厳しく注意することがあります。私から厳しい注意を受けると、積極的に挨拶に来られない指導者がいます。反対に、注意を受けたことで、それまで以上に挨拶に来る指導者もいます。

どちらがより成長するかは、「氣」に基づいて考えれば自明の理でしょう。

これは氣の強さによるものであり、「挨拶」とは、氣を強くするための具体的な訓練の一つなのです。

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2017/06/01

どうしたら話が上手になるか

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藤平信一です。

近年、空前の落語ブームのようです。

NHK教育の番組「超入門!落語THE MOVIE」もその一つでしょう。落語は一人で何役も演じながら聞き手の想像をかきたてます。そんな落語の演目をあえて映像化したユニークな番組です。

噺家さんのしゃべりに役者さんが口パクで演ずるドラマ形式で、本当に役者がしゃべっているような錯覚を得ます。噺家さんと役者さんの呼吸が一致すると、それは見事なものです。

今まで見えなかった角度から、落語の魅力を感じられる番組です。

さて、私は内弟子修行時代に「どうしたら話が上手になるか」藤平光一宗主に質問したことがあります。宗主はひと言「それならば、寄席に行って来い」と言います。

幸いにして、宗主のお供で私は週の半分を東京で過ごしていたので、 新宿末廣亭がそう遠くない距離にありました。さっそく末廣亭に足を運んでみました。

その日は別の仕事で到着が遅くなり、すでに後半になっていました。出てくる噺家さんは皆ベテランで、寄席も大変に盛り上がっていて、あっという間に時間が経ってしまいました。

翌週、宗主はこう私に尋ねました。

宗主「先週、寄席に行ったそうだな。どうたったか?」
 「はい!大変面白かったです!」
宗主「・・・・・」

宗主のお顔を見ると、明らかに見当違いな回答をしたことが分かります。

宗主「面白かったのは結構なことだが、何が面白かったのか?なぜ面白かったのか?」

私は当初の目的を忘れていたことに氣づきました。

 「もう一度、行って参ります」
宗主「ああ、そうしなさい。ひとつ教えておいてやろう。せっかく行くなら、最初から最後までみるように」

翌週もまた寄席に足を運びました。今度は最初から入ったので、私を含めお客さんは数えるほどしかいません。前回と違って少し寂しい雰囲氣でした。

次々に出てくる噺家さんの中には、若くても芸に秀でている人もいれば、一目で未熟だと分かる人もいます。

始めは何でこうも違うのか分かりませんでしたが、注意深くみるうちに、高座に上がる前の状態、高座に上がってからの表情、顔の向きや視線、呼吸や間(ま)に、大きな違いがあることに氣づくようになりました。

後半になるほど、芸に秀でた噺家が多くなります。お客さんもいっぱいになり、それは圧巻で、学ぶことばかりでした。いつしか、観客の反応まで注意深くみるようになっていました。

それからは宗主のお許しを得て、毎週、末廣亭に通うことにしました。内弟子修行中は、身の回りのものを整える程度のお金を頂けますが、その大部分をつぎ込んで、いってみれば「投資」をしていました。

お金だけではなく、膨大な時間も投資しました。寄席に最初から最後までいると、途中休憩を挟んで4時間くらいかかります。どれほど通ったか覚えていません。

舞台は「生もの」であり、何が大事かを人から教わっているだけでは、 あるいは、インターネットで「情報」として受け取っているだけでは、本当に大事なものを掴むことは難しいようです。故に、宗主は教えずに「寄席に行け」と言われたのだと理解しました。

宗主「最近、頻繁に寄席にいっているそうだな」
 「はい。先週はこういうことに氣づいて・・・」

私の報告を聞く宗主の嬉しそうなお顔が今も忘れられません。

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2017/05/08

車の運転

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藤平信一です。

私は藤平光一宗主の内弟子として学びました。内弟子時代は毎日、宗主のお供で車の運転をさせて頂いていました。さらに、週に一度は東京・栃木間の移動があり、高速道路がまだ不便で片道3時間くらいかけて移動していました。

短い距離であれば氣をつけることが出来ますが、3時間も運転していると必ずどこかで性格や癖が出るものです。当初、宗主は私の運転時は後部座席でずっと起きていました。今にして思えば、私の運転に信用がなかったのでしょう。

「お前の運転には心の乱れが表れている」

あるとき、このような言葉をかけられました。よく理解出来ずにいる私に、宗主は丁寧に説明をして下さいました。数ある中の二つをお伝えしたいと思います。

一つはブレーキを踏むタイミングです。信号や一時停止線などで前の車が止まれば、当然ブレーキを踏みます。そのタイミングが日によって違うことを指摘されました。つまり私は、ブレーキを踏むタイミングが遅いときがあったのです。

運転している私からすれば、赤信号や前に止まっている車は認識しているので、これからブレーキを踏むことは分かっています。しかし、同乗者にはそれが分かりませんので、タイミングが遅いと「氣づいていないのでは」と不安を与えます。

つまり、私は同乗者の立場に立った運転をしていなかったということです。

なるほど、自己中心的な心の状態に陥っていて、
心身統一合氣道の五原則にある「相手の立場に立つ」にに反しています。そういう心の状態のときは、技もうまくいかないのも、考えてみれば当たり前のことでした。

もう一つは、信号が黄色になったときの対応です。

道路交通法では、交差点を通過しているときに信号が黄色に変わると、周囲に氣をつけながら交差点を通過することになっています。交差点のなかで車が止まってしまうと、交通の妨げになるからです。

他方で、交差点の手前で黄色に変わった場合は、後続車に危険がない限りは、速やかに減速して停止線で止まることが基本なのですが、時々、私は黄色信号になると加速して交差点を通過していました。

一度注意を頂き、また注意を頂き、それでも直らなかったため、後日、宗主は私を呼んでこのように話をされました。

「お前は、なぜいけないか本当に理解しているか」

正直にいって、私は本当のところ何がいけないか分かりませんでした。実際、信号が黄色になってから加速して交差点を通過しても、それまで違反を取られたり、事故を起こしたりしたこともありません。

「お前は、目に見えるものだけを見ているのだな」

宗主はこのように言い、目に見えない「事故の確率」について話をされました。その瞬間は目に見える形で不具合が生じていないとしても、信号が黄色になって加速する習慣は間違いなくリスク
を高めています。

その確率が高ければ、一生のなかで悪いタイミングが重なると、どこかで事故を起こすことになります。信号が黄色になって減速する習慣は、間違いなく「事故の確率」を下げています。リスクはゼロにはなりませんが限りなく少なく出来ます。

このリスクは目に見えないため、「いま問題になっていないのだから、これからも問題にはならないだろう」と私は考えていたのです。私の態度は「目に見えないものは存在しない」というものでした。

この態度で物事を行えば、車の運転以外でもトラブルを起こすことになります。宗主は黄色の信号について注意していたというよりも、この「目に見えないもの」を言われていたのでした。

「心が身体を動かす」のですから、運転にも心の状態が表れています。 したがって、運転を通じて心の状態を知ることが出来ます。

私の心が乱れなくなってからは、宗主は後部座席でゆっくりお休みになりました。今にして思えば、私は毎回、宗主に心の状態をチェックして頂いていたのでした。これこそ、内弟子修行の意味であったのでしょう。

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2017/04/03

万能薬を求めない

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藤平信一です。

様々なメディアで情報発信される中で、情報の質というものが、
近年は偏ってきているように感じます。

「こうすればこうなる」という単純な情報だけが溢れていて、「なぜそうなるのか」「本当にそうなのか」という検証がなく対症療法的になっています。

例えば、「納豆が健康に良い」という情報がテレビで紹介されると、翌日、スーパーマーケットから納豆が姿を消します。日本では、特にその傾向が強いようです。

健康状態によっては、納豆を食べては良くない人もいるはずですが、そんなことは関係なくなっているようです。

これは「万能薬」と良く似た考え方で、どんな病氣も治す薬など、この世の中には存在しません。それでも万能薬を信じたくなるのは人間の性なのかもしれません。

姿勢も同じことです。

自然な姿勢は本来一人一人で異なり、「究極の姿勢」など存在しません。骨格や筋肉、身体のコンディッションは常に異なるからです。だからこそ「どうすれば自然な姿勢が分かるか」が重要なのです。

心身統一合氣道では自然な姿勢をこのように定義しています。

  • 最も楽な姿勢
  • 最も持続する姿勢
  • 最も安定した姿勢

この三つを兼ね備えている姿勢を「自然な姿勢」と呼んでいます。

「最も楽な姿勢」で言えば、「氣を付け」のように身体に余分な力が入った姿勢はこれに反します。苦しい姿勢には、どこかに無理があるということです。

「最も持続する姿勢」とは、長時間、あるいは繰り返しであっても、無理なく持続出来る姿勢を指しています。ダラッとした虚脱状態は、一瞬楽に感じますが無理があるので持続出来ません。

「最も安定する姿勢」とは、自然にバランスの取れた姿勢であり、氣のテストによって確認することが出来ます。バランスが崩れるということは、どこかに無理があるということです。

これらを確認することにより、その人にとって最も自然な姿勢、無理のない姿勢を確認することが出来ます。

私は縁あって多くのアスリートの指導をさせて頂いていますが、スポーツを問わず今でも究極のフォームを強要する指導者がいるようです。たまたまその選手に合ったものであれば良いのですが、そうでないと指導に従うほど調子が悪くなります。

現実には、一人一人にあった育成や指導をするのは簡単なことではなく、指導者側は膨大な時間と労力を要します。ですから、一人で多くの選手を指導しなければいけない場合は、最大公約数的に良いフォームの「ひな形」を伝えることも必要でしょう。

それはあくまでも「参考」であり「絶対」ではありません。この三つに基づき、自分にとって自然なフォームを求めることが重要です。

心身統一合氣道の稽古も同じことです。「自然な姿勢」の三つの条件は、「自然な動作」「自然な呼吸」と置き換えても同じことです。これに基づき、日々の稽古に取り組んで頂きたいと思います。

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2017/03/01

緊張感

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藤平信一です。

大事な場面。

緊張感によって思うように力を発揮出来なかったという苦い経験を、誰しもが持っているのではないでしょうか。

しかし、本来は「緊張感」とは悪いものではありません。

実際のところは緊張感によって集中力を発揮することが出来ます。本番に向けて緊張感が増すということは、集中力を発揮するため、本能的に身体が臨戦態勢を整えているということです。

私自身は元々は緊張しやすい性格でしたので、大事な場面の前は、ひどい緊張感で過ごしていました。

程度の差はあれ、それは指導者になった今も変わりません。ロサンゼルス・ドジャースの指導も、NHK「あさイチ」の生出演も直前まで大変な緊張感がありました。

ところが、今から数年前、ある学会での大きな講演会でしたが、直前にも関わらず全く普段と変わらないときがありました。

「ついに落ち着きを会得したか」などと傲慢なことを考えながら壇上に上がったところ、頭が真っ白になり、何を話すか分からなくなってしまいました。

それまで一度たりともなかったことです。幸運なことに調子を取り戻して、何とか講演を無事に終えました。

振り返ってみれば、この頃はかなり「講演慣れ」してきていて、目の前の講演にしっかり心を向けていませんでした。その結果、本来不可欠な「緊張感」が全く生じなかったのです。

講演は毎回違う人が対象であり、「一期一会」であるはずなのに、そんな基本すら忘れていたことを恥ずかしく思いました。対象や規模に関係なく、今では毎回、健全な緊張感を得ています。

他方で、緊張感でガチガチになってしまう人もいます。この場合は明らかに緊張感がマイナスに働いています。その原因は「緊張感」の捉え方に問題があります。

最もいけないのは、緊張があるのに「自分は緊張していない」と、自分に対して嘘をつくことです。緊張感を無視すればするほど、どこまでも追っかけてくるものです。

緊張感も自分の一部であり、「ようこそ!」「いらっしゃい!」と、歓迎するくらいの氣持ちで受け入れることが重要です。

場合によっては、緊張感を口に出すことも大きな効果があります。これは決してマイナスな言葉を口にしているわけではなく、「今」の自分の状態を冷静にみるために必要なことなのです。

緊張感を受け入れた瞬間に、心も身体もそれに順応していきます。簡単に言えば「緊張感に馴染んでくる」のです。すると今度は緊張感が集中力として発揮され、持っている力を最大限に発揮出来る状態になります。

「順応」がキーワードであり、心を静めて現実と向かい合うとき、厳しい局面でも、人間はその環境に順応していくことが出来ます。

4月から、環境が新しくなるという方も多いことと思います。緊張感があると思いますが、ぜひ活かして頂きたいと思います。これもまた重要な稽古なのです。

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2017/01/10

大自然と氣

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藤平信一です。

「氣」というと、よく分からない怪しいものと捉える方がいます。かくいう私も例外ではありませんでした。

理系で学んでいた私は、「科学で証明を出来ないもの」は信じられず、「氣というものがある」という前提で学ぶことは出来ませんでした。

そんな私がなぜ学ぶことが出来たかと言えば、藤平光一宗主が日頃よく言われる、ある「言葉」からでした。

「正しいことには普遍性と再現性がある」

「普遍性」とは、誰もが出来るということ。「再現性」とは、(同じ条件下であれば)何度でもできるということ。「氣」という形のないものを会得するには、この二つの性質が備わっていることを確認いしければいけないと説きました。

そこで、私は自分自身で「実践」し、「検証」することを「氣」を学ぶ基本姿勢とすることにしました。教わったことを鵜呑みにせず、良い意味で「疑う」ことから始めて、普遍性・再現性に基づいて「実践」「検証」を積み重ねて来ました。

その結果、「氣」が如何に重要かを学んで参りました。

「氣が通う」「氣が滞る」はその一つです。

我々は、外界(大自然)と氣が常に通っているのが本来の状態ですが、心の使い方、身体の使い方を誤ると、氣が滞ってしまいます。氣が滞ると、コンディッションや人間関係などで不具合が生じます。

特に自己中心的な状態になると、外界との繋がりを失って氣が滞り、周囲のことが全く見えなくなります。すると、いま自分が何をすべきかが全く分からなくなってしまいます。

こういうときは、氣が滞った状態を如何に解決するかが重要であり、心身統一合氣道の技の稽古や氣の呼吸法などが大きな助けになります。


この氣の滞りを、大自然の力を借りて解消する方がいらっしゃいます。
それが山田博さんです。山田さんは元々、厳しいビジネスの世界で生き抜いて来られました。その後、コーチングを学びプロコーチとなり、現在は、森の中でのワークショップを開催なさっています。

森の中で数日過ごしていると、理屈ではなく実感として、外界との繋がりを取り戻すことが出来ると山田さんは言われます。

特に現代人が持つ「漠然とした不安」は、大自然との繋がりを忘れ、自分一人の存在に陥ったときに現れます。「森」は、その繋がりを取り戻す手助けをしてくれるのだそうです。また、森で過ごすうちに、人間が本能的に感じる「恐怖」と、頭の中で作り出す「不安」の違いも分かってくるそうです。

山田さんは「森を応援して委ねる。委ねれば委ねるほど、うまくいく。森は何の見返りも求めず、全てを受け入れてくれます。森はそんなところです」と言われます。

2月11日(土)建国記念の日に開催する「Kiフォーラム2017」に、山田博さんをゲストスピーカーにお迎えして、「大自然と氣」をテーマにトークセッションをいたします。

参加対象は、心身統一合氣道会の指導員と会員です。一般の方でも、指導員・会員が同行する場合は参加が可能です。過去のKiフォーラム」、もしくは日本経営合理化協会「藤平信一・氣の道場」に参加された方も対象です。

参加される方には、慶應義塾大学大学院の前野隆司教授が書かれた『無意識の整え方』を事前に読まれることをお勧めします。四つの異なる分野の方と前野先生が「無意識」について対談したもので、私と同様に山田さんも対談されています。

Kiフォーラム2017」の内容をより深く理解出来ます。

皆さまのご参加をお待ちしています。

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2016/12/01

道とは

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藤平信一です。

「心身統一合氣道」に限らず、日本には「道」のつく学びがあります。「道」の解釈は無限にありますが、私は文字通り「道(みち)」と捉えています。

「道」は永続性を表しています。道は未来に向けて連綿と繋がっています。もし、途中で切れていたら、それは「道」とは言えません。

その性質から、人生もよく「道」に例えられます。

いま自分が何をすべきか、自分がいましていることの意味を知るには、目先のことではなく、「道」として捉えることが重要なのです。

我々は自分たちが学んでいる道場を掃き清めます。

スポーツジムに通う人は、おそらくジムを清掃することはないかもしれません。道場の場合、そこで稽古する者が一緒になって道場を掃き清めます。

始めのうちは、「なぜ清掃をするのか」疑問に思う人がいるようです。そんな時間があるのであれば、稽古する方が良いのではないか、と。

もし、心身統一合氣道をテクニックやノウハウとして学ぶのであれば、清掃などはまったく無駄な時間に見えることでしょう。

もし、心身統一合氣道を「道」として捉え、長いスパンで学ぶのであれば、清掃が決して無駄な時間ではないことが分かります。「清掃する」ことは「自分の心と向かい合う」こと。自分の成長に繋がっています。

事実、藤平光一宗主の内弟子時代、道場やその周辺をよく清掃していました。始めのうちは意味が分かりませんでしたが、日々清掃を続けるうちに、自分自身の心の変化に氣づくようになりました。

一つ一つのことに細かいことにまで氣が届くようになり、それまで氣づかなかったことにも氣づけるようになってくるのです。

それは稽古の質に直結し、技の理解も深くなることが身体で分かりました。本当に身につけるには、「清掃」もまた大事な稽古であったのです。

「修行においては、望む望まないに関わらず目の前のことを全力でやれ」と、清掃に限らず、藤平光一宗主は私にありとあらゆる事を経験させました。

その結果、現在の自分があります。今となってみれば、何でもさせて頂いて本当に良かったと思います。

若くて未熟なうちは「これをやって何になるのだろう」と考えがちです。それが無駄なことかどうかは、「道」として捉えてはじめて分かるのです。人生を「道」として捉えれば、無駄なことなどほとんどありません。

失敗や挫折も、出来れば経験したくないものです。目先のことだけしか見えていないと氣は滞り、氣力もなくってしまうでしょう。

しかし、「道」という視点であれば失敗も挫折も大事な経験であり、それが必ず将来に繋がると信じることが出来ます。だからこそ乗り越えて行けるのです。

「道」という考え方は、目先のことにとらわれやすい人の心に対して、「長いスパンで物事を捉える」先人の知恵だと、私は考えています。

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2016/08/01

聴く・伝える・反応する

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藤平信一です。

昔から、人間が抱える最大の問題は「人間関係」と言われています。

始めから壊れている人間関係もありますが、多くの場合、始めは良好で、些細なことをきっかけに「ボタンの掛け違い」の如く悪化するものです。

組織の長として、私は人間関係の相談を受ける機会が多くあります。

悪くなっている人間関係を瞬時に解決するような「魔法」は存在せず、ボタンの掛け違いの元となっていることを見つけ出すことが必要です。それには「どちらか一方の努力」ではなく「双方の努力」が必要です。

どちらか一方でも関係修復を諦めたり、無関心になっていたりすると、問題の解決は難しくなります。双方に解決の意思があれば、時間はかかっても必ず解決を出来ます。解決の意思がない場合、アプローチは完全に違うものになります。

なぜなら、問題の原因は「コミュニケーション」にあるからです。

コミュニケーションにおいて重要なことは沢山あるのですが、私は「聴く」「伝える」「反応する」を3要素と置いています。

相手の話を「聴く」、この当たり前のことが決して簡単ではないのです

「自分のことを理解して欲しい」「相手を説得したい」という状態だと、相手のことを全くみておらず、話が耳に入らなくなります。自分のこと・相手のこと・周囲のことも全く分からない状態ですので、適切な行動を取れなくなってしまうのです。

これは技の稽古と同じです。「相手を投げたい」「自分の思い通りに動かしたい」という状態だと、相手のことを全くみておらず、結果、導き投げることは出来ません。

臍下の一点に心を静め、心身一如で相手と向かい合うことで、話の内容は勿論、相手の「思い」も理解することが出来ます。

たとえ、相手の意見を否定し、却下しないといけない場合でも、ひとたび相手の「思い」を受け入れることが重要なのです。

相手に「伝える」ことも、「聴く」と同様に簡単ではありません

何かを伝えるとき、例えばイライラして心の状態が乱れていると、そのイライラが先に相手に伝わってしまって、耳を閉ざされます。伝える側の心がネガティブな状態でも、同じことが起きます。

知識や情報を伝えるだけならばどのような状態でも出来るかもしれませんが、「思い」のように形のないものを伝えることは難しいものです。

そもそも伝えるには、相手と「信頼関係」があるのが前提です。その上で臍下の一点に心を静め、心身一如で向かい合うことで、本当に伝えたいことが伝わるようになります。

ただし、順番は「聴く」→「伝える」で、逆は上手く行きません。したがって、「伝える」訓練より「聴く」訓練が優先されます。

「反応する」は、大抵は無意識の働きです。

相手が過激な言葉を使うと、その刺激に無意識に反応してしまって、さらに過激な言葉で応酬することになります。或いは、その反応を無理に抑えようとすると大きなストレスになり、心に過度な負担がかかります。

刺激そのものを止めることは出来ませんので、刺激が生じた後に、どのように対処するかが重要です。

このとき、最も良い方法の一つが「ひと呼吸おく」です。氣の呼吸法で息の吐き方(静まり方)を訓練している方であれば、ひと呼吸おくことで、刺激に対してすぐに反応せずに済みます。

相手が過激な言葉を使ったとしても、「どうかしましたか?」と相手を氣づかうだけの心のゆとりが生まれます。これは本当に大きいことです。

「聴く」「伝える」「反応する」それぞれを訓練しておくことで、相手や周囲とコミュニケーションを取れるようになって来ます

人間は一人一人異なる考えや意見を持っているのが当たり前です。だからこそ、話し合うことで良いものが生まれます。

「聴く」「伝える」「反応する」という基本が出来てさえいれば、変な表現ですが、安心してぶつかり合うことが出来ます。そこから素晴らしいものが生まれます。

この基本が出来ていないと、相手や周囲から拒絶されるのを恐れて、お互いが傷つかない適当な距離を取るようになります。その結果、何も生まれなくなります。

「聴く」「伝える」「反応する」は心を静めることで磨かれます心身統一合氣道の稽古を通じてご一緒に磨いて参りましょう。

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2016/07/04

生活の中の訓練

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藤平信一です。

私の本業は心身統一合氣道の指導・普及と指導者の育成です。一年を通じて最も多くの時間を使います。

さらに、心身統一合氣道を世の中に広く知って頂くため、本を書き、取材を受け、外部の講演・講習で「氣」の指導をしています。

ロサンゼルス・ドジャースやサンディエゴ・パドレスのように、合氣道と完全に異なる分野で指導しているのも、その一環です。スポーツだけではなく、その分野は多岐に渡っています。

勿論、自分自身の勉強や訓練の時間も確保しなければいけないので、総てを全うするには、当然のことながら時間が足りません。

つまり、私にとって時間の使い方が最大の課題です。

実際のところ、稽古以外で自分自身の勉強や訓練の時間を別に設けるのはなかなか難しいので、「見るもの・触れるもの」総てが訓練、と自分の中でおいています。

例えば、仕事において、こちらの用件で先方に電話するとします。

伝える内容によって、始めに「何分で話をするか」目標を決めておきます。また、電話する相手には最初に「~分頂けますか」とお伝えしています。

これをすることによって、二つのことが得られます。

第一に、目標の時間を決め、その中で相手が理解出来るように伝えるには、事前に自分のなかで話の内容が整理されていなければいけません。

また、相手がどの程度状況を把握しているかによって必要な時間は変わります。したがって、相手のことも理解しておく必要があります。

決まった時間内に収まらないときは、自分の伝え方に不足があったのか、あるいは、目標そのものに無理があったのかもしれません。何にしても、次に目標を立てる際にフィードバックします。

このトライ&エラーを繰り返すことによって、相手のことをよくみる様になり、「分かりやすく伝える」訓練になるのです。

第二に、「時間」の感覚が身につきます。

3分間で伝える」という目標を立てて、実際に3分で収まるようにすると、いちいち時計を見なくても3分という長さが身体で分かるようになります。

この時間の感覚は指導の現場でも活きて来ます。3分を過ぎると体感で分かるので、自分の話が長くなっていることに氣づき、そこから立て直すことも出来るようになります。

この3分は状況によって変わるものであり、また研究の余地もあります。

私はいま基本を「2分」に定めています。時間がかかっても「3分」です。また、対面で話をする際は「1分」を基本にして伝わるように心がけています。

本来、こちらの用件で話しかけているので「相手の時間を頂いている」わけです。湯水のように時間をかけて良いはずがありません。

自分の中で話の内容が全く整理されていない状態で話しかけてしまうと、相手は、話の内容を理解するために余分な時間をかけることになります。

厳しい表現をすれば「相手の時間を盗んでいる」ことになります。

勿論、時間を氣にしながらでは出来ない重要な話もあります。そういう場合は、反対に、時間の制約を完全に取り払うことが大事です。

また、相手の用件をお聞きする場合は、こちらで目標は立てられないので、誤解がありませんように...

たかが電話、されど電話。

目的を持って行えば、電話をかけること一つでも重要な訓練になります。私たちは何千回、何万回と電話をかけているわけですが、目的なくただ行っていたら、そこから得るものはほとんどありません。

歩くこと、登ること、持つこと、運ぶこと、伝えること、など、日常生活のあらゆる動作や行為が訓練になるのです。このように、私はあらゆることで訓練しています。

すると、限られた時間であっても有効に訓練することが出来ます。この原稿を書いている今も、まさに訓練の最中なのです。

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2016/06/01

氣が出ている

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藤平信一です。

握手を思い浮かべて下さい。

相手との距離、手を出す位置やタイミング、視線を向ける先など、私たちはどのように決めているでしょうか。

多くの場合、無意識のうちに決めています。むしろ、どのくらいの距離で握手をしたら良いかを考えた瞬間に、どうしたら良いか分からなくなり、自然な握手ではなくなります。

氣が出ているとき、すなわち周囲(外界)と氣が交流しているときは、その関わりにおいて、どうあるべきかを察知することが出来ます。

初めて会う人と、何十年来の友人に会うのでは距離は違うでしょうし、国や文化によって、あるいは人によっても適切な距離は違います。

重要なことはそれを感じ取れるかどうかです。

「自分がどうすべきか」と自分のことだけに心がとらわれた状態だと、周囲との関わりがないため何も察知出来なくなるのです。

合氣道の技も同じことで、相手との距離・位置関係、間(ま)などは、その関わりによって自然に決まります。

「自分がどういう動きをするか」という心の使い方をしているうちは、どうして良いのかは分かりません。

氣が出ていることが稽古の出発点であり、だからこそ、「心身統一合氣道の五原則」の最初に記されています。

 心身統一合氣道の五原則

  一、氣が出ている
  二、相手の心を知る
  三、相手の氣を尊ぶ
  四、相手の立場に立つ
  五、率先窮行

それでは、どうしたら「氣が出ている」状態を確認出来るでしょうか。

問題は、「氣が出ている」状態とは、特別な感覚ではないことです。それは「元氣である」ことに似ています。

元氣なときは特別な感覚があるわけではありません。健康なときは、むしろ健康であることを忘れています。

他方で、元氣なときは様々な実感があります。例えば「身も心も軽い」「食事やお酒を美味しく感じる」ようなときは、その実感を通じて元氣であることが分かります。

氣が出ている状態も、このような実感を通じて確認することが出来ます。確認の方法は幾つもありますが、ここでは三つ紹介いたします。

【見える範囲が広いか】

これは視界の問題だけではなく、視野が広く保たれているかどうかです。見えている範囲が広いとき、氣が出ています。

調子の悪いアスリートを指導していると、例外なく視野が狭くなり、氣が滞っていることが分かります。「集中」と「執着」を混同していると、これがよく起こります。

【周囲を感じられるか】

周囲のことを良く感じられるときは氣が出ています。反対に、一つのことに心がとらわれて、周囲のことが感じられないときは、氣が滞っているときです。

目の前のことに心がとらわれると、周囲のことを全く感じられなくなります。「相手に合わす」という心の使い方をしていると、これがよく起こります。

【全身でとらえているか】

「全身全霊」という言葉の通り、合氣道だけでなく何事を行うときでも、全身でとらえているときは氣が出ているときです。

身体を部分的に用いているとき、つまり全身でとらえていないときは、氣が滞っているときです。小手先で物事をしようとすると、これがよく起こります。


このような実感を通じて自分自身の状態をみていると、一日の中でも、氣が出ている状態、滞っている状態を繰り返していることが分かります。

自分の状態を正しく理解するからこそ良くすることが出来ます。自覚のないものは直しようがありません。

「氣が出ている」ことが稽古の出発点である以上、道場では勿論のこと、日常生活で氣が出ている状態を確認することが重要なのです。

ご一緒に磨いて参りましょう。

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