2020/02/03

性質をみる

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先日、地方で宴席に出たときのこと。

東京から参加していた青年が、手違いで宿泊先が確保出来ておらず、どうしたら良いか困っている様子でした。

青年は、見た目に厳しそうな先輩と一緒に来ていました。それを知った先輩は、スマートフォンを取り出して調べ始めました。電話をするため宴席を中座もしていました。青年は恐縮して待つばかりでした。

しばらくして先輩が戻り、予算内で宿泊先を確保出来たことを伝え、宿泊先と住所と連絡先を書いたメモを青年に渡したのでした。そしてひと言、「チェックイン出来たら連絡よこせよ!」と声をかけました。

そのときに先輩が発している氣をみて、何とも言えない温かさを感じました。青年はそんな先輩を心から慕っている様子でした。

性質は「氣」によって伝わります。

「性質をみる」とは、頭で考えて分析することではありません。心が静まっているときに、自然に感じ取れるものです。

企業や学校などの講演で「性質をみる」という話題に触れると、性質をどのように言葉で表現するか、あるいは数値化できるか、そういった質問がたくさん出て来ます。

藤平光一先生は「言葉に出来るとしたら性質ではない」と説きました。

「性質をみる」とは、ありのままを感じ取るということであって、言葉に置き換えた瞬間に、それは別物になってしまうでしょう。性質をみるのに、言葉にする必要はないということです。

実際のところ、「性質をみる」ことは決して簡単でありません。

私たちは、「好き」「嫌い」、「合う」「合わない」といった自分の物差し、あるいは、自分の価値観で人をみています。相対的世界に生きているわけですから、それは仕方のないことです。

しかし、人と接するとき、物差しや価値観が先立ってしまうとしたら、性質をみることは難しくなります。さりとて、そういったものを完全に捨てることも出来ません。

いったいどうしたら良いのでしょうか。

唯一の方法は、「心を静める」ことです。

湖面を思い浮かべて下さい。風がない日に、湖面の波が無限小に静まると、鏡のようになります。すると、月は月として、鳥は鳥として、そのままの姿を映し出します。

湖面が波立つと、月も鳥もその姿を正しく映し出さなくなります。イライラして心が波立っているときは最たる例です。

心の状態も同じことで、心を静めることでありのままを映し出します。このとき、「性質をみる」ことが出来るのです。

心を静める訓練として、私たちは臍下の一点に心を静めることを学び、そして、氣の呼吸法を実践するのです。

性質を理解するからこそ、その人の能力を引き出すことが出来ます。人を導く立場にある者は、これを肝に銘じなければいけません。

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2020/01/06

性質と能力

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宮大工の世界では「木の性質をみる」ことが重要とされています。

同じ種類の木でも、北向き・南向きなど場所によって質が異なり、建物に使用するときは生えていた環境をふまえて用いるそうです。木の性質を見極めて、適材適所で活かすことが求められています。

藤平光一先生は、「心とは性質である」と説きました。木や石にも心はあり、野菜にも心がある、ということです。

人参には人参の性質があります。大根には大根の性質があります。人参に白粉をつけても大根にはなりません。人参の性質を理解するからこそ、人参の良さを引き出せます。

勿論、人間も一人一人異なる心(性質)を持っています。

その性質が適切に表れるのが「長所」であり、反対が「短所」です。「長所」「短所」という性質があるわけではありません。

長所と短所は表裏一体のようなもので、発現の仕方が変わることで、短所が長所に変わることも少なくありません。

人をより良く導いていくためには、その人の心を真っ直ぐみること、すなわち、性質を理解することが不可欠なのです。

 「性質」は、「能力」と混同されることがあります。

先日、ある親御さんからお子さんの反抗について相談を受けました。そこで、親御さんにみえるお子さんの性質を尋ねることにしました。

親御さんは「学校の成績は悪くないです」「運動は得意です」「英語が出来ます」と説明されるのですが、私は何ともいえない違和感を覚えました。それはお子さんの「能力」であって、「性質」ではないからです。

お子さんは日頃どんなことを大事にしているのか、お子さんは日頃家族や友だちとどう接しているのかを知りたかったのですが、この親御さんからは、最後までそういう話は聞けませんでした。

私は、反抗の原因はそこにあるのかもしれない、と感じました。「人=能力」という捉え方をしていると、その人の性質をみていないので、心を無視しているからです。存在の否定になってしまうのです。

能力偏重の社会では、学校でも会社でもこの捉え方が土台にあるので、「能力がない=存在する価値がない」と考えられています。家庭までそうであったら、お子さんの居場所はなくなってしまいます。

また、特別な能力を持つことで存在する価値が得られると考える人もいます。「人=能力」と捉えてしまうと、能力を持つ者を妬み、持たない者を蔑みます。それは、出口のない迷路に迷い込むようなものです。

能力は大事なものです。そして、能力は一人一人が持つ性質を正しく理解することで発揮されます。

人の性質を理解することは決して簡単ではありません。言葉に出来ないものであり、「氣」で伝わるものだからです。

一度の機会、短い時間で見極められれば良いのですが、私の場合、日頃のたくさんの細かなやり取りを通じて、少しずつ理解出来ます。

例えば、無口のお子さんは、一見すると「活発でない」ようにみえますが、感じたことを書いてもらうと、実はたくさん話をするお子さんより、物事を注意深く物事をみているのが分かることがあります。

「氣」を通じて相手の性質を理解するプロセスこそ、人を導く上で最も重要ではないかと私は思います。

心身統一合氣道の道場・教室は、性質を理解する場でありたい。性質が適切に発現することで、能力が発揮される場でありたい。

本年の最も大切なテーマの一つです。

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2019/12/02

「氣を出す」とは何か(2)

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私が指導者となってからの話です。

藤平光一先生の内弟子修行が始まり、間もなく指導の現場を頂きました。20人ほどの皆さんが通う大人クラスでした。大学合氣道部で稽古の統率を取る経験はありましたが、氣の理解は足りず、指導技能も不十分で、人間性も未熟な中での指導でした。

始めは多くの人が通って下さっていましたが、一人、また一人と減って、冬の氣候が厳しい時期には、ついには男性お一人になってしまいました。その方もおそらく「自分が休んだら稽古が成り立たなくなってしまう」と、責任感で通って頂いていたのかもしれません。

師匠からお預かりしたクラスを、ここまで人を少なくしてしまったことに、私はいたたまれない氣持ちになっていました。そんなときは、不思議と技もうまくいかないことが多かったのです。

私が相当に思い詰めた顔をしていたのでしょう。あるとき、ついに稽古のことで藤平光一先生から呼び出されました。

師匠 「最近、稽古に来る人が少なくなっているそうだな」
私  「申し訳ありません!一生懸命やってはいるのですが...
師匠 「お前は自信がないのだな?」
私  「はい...。うまくいかない技もたくさんありますので」
師匠 「なぜ、うまくいかないか分かるか?」

「なぜ」と言われても、それが分かっていれば苦労はありません。何も答えられず、私は黙り込んでしまいました。

手を抜いていることは一つもない。単に実力の問題ではないだろうか。あるいは、自分には才能がないのではないだろうか。そんな私の考えを総てお見通しだったのでしょう。

師匠 「実力や才能ではない。それは、お前が氣を引いているからだ。出来ないことではなく、出来ることに心を向けなさい」

それだけ私に伝えて、藤平光一先生はその場を後にしました。

私は心身統一合氣道の継承者となるべく修行を始めましたので、皆さんに認めて頂けるかどうかばかりを考えていました。今の自分に出来ること以上のことをやろうとしていたのですから、出来ないことを一生懸命やっていたのと同じです。

それでは、いまの自分にいったい何が出来るだろうか。始めは何もないかと思いましたが、冷静になればたくさんありました。

稽古に来られる皆さんが、少しでも氣持ちよく過ごすことが出来るよう、今まで以上に道場を掃き清めることが出来るのではないか。

心からプラスの笑顔で皆さんをお迎えしたり、お見送りしたり出来るのではないか。

自分には何の解決も出来ないとしても、一人一人にしっかり心を向け、お話をお聴き出来るのではないか。

こういったことであれば、指導技能に関わらず出来るはずです。自分には能力や才能がないと決めつける前に「出来ることに全力を尽くしてみよう」と心に決めたのです。

それでも、しばらくは人数が少ない期間が続きました。冬が終わり春を迎える頃になって、稽古に来られる方は徐々に増え、初夏の頃には、最初にお預かりした人数よりも多くなっていました。

何よりも不思議だったのは、それまで全くうまくいかなかった技が、自分でも驚くほど出来るようになっていったことでした。「心身統一合氣道の五原則」の最初は「氣が出ている」なのですから、今となれば決して不思議なことではありません。

 「出来ないことにとらわれて思い悩むのではなく、出来ることをみつけて全力を尽くす」

これこそ「氣を出す」ことだと、過去の体験と繋がったのでした。

今でこそ、私は国内外で多くの皆さんに指導させて頂いていますが、このときの初心を忘れず、指導の現場に立ち続けたいと思います。

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2019/11/01

「氣を出す」とは何か(1)

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「氣を出す」とは何か。

氣が滞ると、心を自在に使うことが出来なくなります。このとき、氣を出すことによって、氣の滞りが解消されます。氣を出すことによって、新たな氣が入ってくるからです。

このことは、「渋滞」の持つ性質ととても良く似ていることが、新刊での西成活裕先生との対談で分かりました。氣も流れである以上、流れには渋滞が起こりうるということです。

私は2歳くらいから心身統一合氣道の稽古をしていますが、子供の頃は、氣を出すことが良く分かりませんでした。「何を」「どうする」ことなのか具体的でなかったのです。

その頃、こんな出来事がありました。当時、有段者を目指して熱心に稽古なさっていた方がいました。

不運なことに、この方は交通事故に遭い、大きな怪我を負って、ほとんど動けない状態になってしまいました。当時の医療では、元通りに回復する見込みはなかったのです。

周囲の人たちが「もう稽古は出来ないだろう」と感じていた中、しばらくして、付き添いの方と共にご本人が道場に来られました。予定していた審査を受けさせて欲しい、と言われるのです。

技は全く出来ませんが、号令や氣合いならばかけられるとのこと。

当時の指導者たちは困惑して、この方だけ特別扱いは出来ないと、申し出を断るべきではないかと話し合っていました。藤平光一先生がこの話を耳にしたのは、ちょうどそのときでした。

事情を聴いた藤平光一先生は指導者たちを集めて一喝しました。

「お前たちは日頃、いったい何を教えているのか。この方は、事故によって技の動きは全く出来なくなってしまった。しかし、出来ないことに絶望するのではなく、出来ることを探し、それに全力を尽くそうとしている。これを、氣を出すというのだ。よく覚えておけ!」

審査を受験したこの方は、見事な号令をかけていました。

審査に立ち会った藤平光一先生はにっこりと「合格です」と言われ、氣を出すことを実践するこの方に最大の賛辞を送りました。それに対して、この方は「これからも氣を出していきます」と応え、その眼から大粒の涙がこぼれていました。

心身統一合氣道は「氣を出す」ことを目的に稽古をしています。当時も私は知識としては教えられていましたが、この出来事を通じて、「氣を出す」とは何かを学びました。

ときに、私たちは逆境に直面します。そんなときは、周囲は「出来ない」ことでいっぱいになっています。

そこで、出来ないことにとらわれて腐ってしまうのか、出来ることを探して、それに全力を尽くすかでは、人生は大きく変わることでしょう。たいへんなときだからこそ、「氣を出す」ことが必要なのです。

このことはその後、私が指導者になってから深く学ぶことになります。

次回に続きます。

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2019/10/01

誦句集「座右の銘」(3)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。


氣が通うために、もっとも重要なのは「氣を出す」ことです。氣を出すことで新たな氣が入って来て、氣が通うようになるのです。人間本来の状態に戻ることが出来ます。

流れにおいては、「出せば入ってくる」という性質があります。先に入れようとすると、流れはかえって滞ってしまうのです。

「氣」をバッテリーの様に捉えると、ためて消費するわけですから、少しでも節約した方が良い、という考えになるかもしれません。ここでいう「氣」は、そうではありません。氣が通うことによって力を得るのです。


原因は分からないのに、何となく調子が悪いときがあります。閉塞感やイライラなど、表れる症状は様々です。誰しも経験があるのではないでしょうか。そういうときは、氣が滞っていることが多いのです。

氣が通っているときに、心を自在に使うことが出来ます。言い換えれば、氣が滞っているときは、心を自在に使えません。心の働きが鈍くなることで、何となく不調を感じるのでしょう。

こんなときは、ただ待っていても良くなることはありません。「氣を出す」ことが重要です。


ただし、氣を出すといっても初めての方には良く分かりません。そのため、「心身統一の四大原則」があります。氣を出すとは具体的にどういうことかを置き換えているのです。

  心身統一の四大原則

  一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
  二、全身の力を完全に抜く。
  三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
  四、氣を出す。

「心身統一の四大原則」はよく、山頂に至る四つの異なる登り道に例えられます。どの道を用いても、最終的に同じ目的地にたどり着きます。

例えば、氣を出すとは「心を静める」ことと同じということです。また、全身リラックスして身体の隅々まで滞りのない状態であり、落ち着いている状態でもある、ということです。

その人によって、あるいは、そのときの状況や環境によって、もっとも取り組みやすい方法を選べば良いのです。

四大原則は、一つが備わっているときは、他の三つも備わっており、一つが備わっていないときは、他の三つも備わっていません。四つ総てを同時に行う必要はなく、どれか一つを行うことです。


ご参考までに、それに対して、「心身統一合氣道の五原則」は、人を導くための具体的なプロセスです。同じ原則でも、四大原則とは性質が異なるので注意が必要です。

  心身統一合氣道の五原則

  一、氣が出ている
  
二、相手の心を知る
  三、相手の氣を尊ぶ
  四、相手の立場に立つ
  五、率先窮行(そっせんきゅうこう)


道場での稽古は「氣を出す」ことを目的に技を練っていきます。そのため、稽古することで、氣の滞りが解消されやすいのです。氣が滞っているときほど、稽古をすべき理由がここにあります。

三回に渡って、誦句集の「座右の銘」を解説して参りました。座右の銘を正しく理解することで、正しい目的で稽古を出来ます。

皆さんの理解が深まりましたら幸いです。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/09/02

誦句集「座右の銘」(2)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。

心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

ここで初めて「心身を統一する」という言葉が出て来ました。

心身統一合氣道の「心身統一」で、心身統一とは「天地と一体である」ことを指します。

しかし、多くの人が「心と身体の統一」と間違えて捉えています。もし、この理解だとしたら、自分の心と自分の身体の統一なので、「個」のなかで完結することになってしまいます。

「天地と一体である」とは、外界とつながりを持つことであり、それによって周囲のことを理解し、導いていくことが出来ます。心身統一合氣道の稽古の根幹です。

「心と身体の統一」という理解は、まさにそれとは逆なのです。稽古の目的を誤って理解すれば、稽古の方法が変わってしまいます。


私たちは天地の一部の存在で、そのつながりによって生きています。

例えば「呼吸」も、天地とのつながりの一つです。体内に空氣を取り入れ、全身に酸素を送り、二酸化炭素を回収し、また体外に出します。このつながりが滞ってしまったら、たいへんなことになります。

天地とのつながりがなくては生きることは出来ないにも関わらず、私たちはときに、行き過ぎた「個」の意識を持つことによって、あたかも自分独りで生きているような錯覚に陥ります。

そんなときに、様々な不具合が生じるのです。

「天地と一体である」とは、特別な状態ではなく、本来の状態であり、自然な状態であるということです。

誦句集の一文をより丁寧に記述するのであれば、こうなるでしょう。

心身を統一し、即ち、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。


わたしたちは「氣」を通じて、天地とつながりを持っています。

そのつながりが確かなとき、氣は自由に行き来して活発な状態にあります。その状態を「氣が通っている」と言います。

つながりが不確かなとき、氣は自由に行き来出来ず停滞した状態にあります。その状態を「氣が滞っている」と言います。

海中で、海の水を両手で囲うとします。自分の手の中にある水は、「わたしの水」と言えるかもしれません。しかし、実際には「海の水」を自分の手で囲っているに過ぎません。

手で囲った水が海の水とつながりを持ち、自由に行き来していれば、手で囲った水が淀むことはありません。しかし、水の行き来が停滞すると、手で囲った水は淀んでいきます。

「氣」も同じです。

天地の「氣」を自分という存在によって囲っていると考え、氣が自由に行き来していれば、氣が淀むことはありません。

しかし、天地とのつながりが弱くなると、氣は自由に行き来を出来ず、次第に淀んでいくことでしょう。

氣の滞りは、心身の不調や人間関係の問題となって表れるので、「氣が通っている」ことが最も重要だということです。

そして、心身統一する(天地と一体である)ための具体的な方法が、「心身統一の四大原則」なのです。

次回に続きます。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/08/01

誦句集「座右の銘」

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心身統一合氣道では、稽古の始めに全員で「誦句集(しょうくしゅう)」を唱和します。心身統一合氣道の創始者である藤平光一先生が、心身統一合氣道の重要な教えを22の項目にまとめたものです。

その中でも最初の「座右の銘」は、心身統一合氣道を学ぶ者にとって、修行の目的が明確に記された最も重要な内容です。多くの皆さんから質問を受けることから、ここで解説したいと思います。

「座右の銘」の全文は下記の通りです。

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

座右の銘は、「万有を愛護し...」から「...眼目である」までの前半と、「心身統一の四大原則」以降の後半から成り立っています。前半部分には「何をすべきか(what to do)」が記されていて、後半部分には「どう実行するか(how to do)」が記されています。

それでは一文ずつ解説して参ります。

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。

天地の心の「心」とは、この場合は「性質」を表しています。「天地」とは、今の言葉に置き換えれば「大自然」を指します。平易に説けば、天地の心とは「大自然の性質」といえます。

大自然の性質そのものに、「プラス」も「マイナス」もありません。生命が始まるのも、生命が終わるのも、同じく大自然の性質です。私たちは、その大自然の性質に身を委ねています。

他方で、私たちの心には「プラス」と「マイナス」があります。大自然の性質を受け入れて、プラスに活かすことが出来ます。

プラスに向かうのか、マイナスに向かうのかは最も重要な選択です。

プラスの人生を望むのならば、プラスに向かうことが自然であり、マイナスに向かうことは不自然です。それはちょうど、北に行きたいならば北に向かって歩むことと同じです。北に行きたいのに南に向かったら到達できません。

「万有を愛護し、万物を育成する」大自然の性質をプラスに活かして、自らの心のあり方としよう、ということです。

 さて、「万有を愛護する」について、もう少し補足したいと思います。

「万有」と「万物」の意味は、現代の国語辞典で調べるとどちらも、「宇宙に存在する総てのもの」とあり、違いが良く分かりません。誦句集では、「万物」とは「宇宙に存在する総てのもの」、「万有」とは「総てのものが持つ性質」を指しています。

「万有を愛護する」とは、それぞれが持つ性質を良くみることです。

私たちが人をみるとき、「長所」「短所」という言葉を用いますが、それはその人の性質を周囲が主観的に判断したもので、実際に「長所」「短所」という性質があるわけではありません。事実、長所と短所は表裏一体で、ちょっとしたきっかけで、短所が長所に変わります。

ある子供クラスでの出来事。

小学校高学年の男の子は、稽古中にとても大きな声を出します。一緒に稽古する子供たちは、その子のことをうるさく感じたり、怖がったりしていました。若手の指導者が「うるさいから静かにしなさい」と注意すると、その子はふてくされ、さらに大きな声で周囲に迷惑をかけます。

そんなときに先輩の指導者がやって来ました。

事の詳細を聞いた先輩の指導者は、男の子のところに行って、稽古する様子をしばらく見守っていました。稽古後、先輩の指導者は男の子のところに歩み寄り、「君は声が大きいね!すごいね!」と声をかけました。てっきり怒られると思っていた男の子はキョトンとしています。

先輩の指導者はこう続けます。

「それだけすごい声なのだから、体操の号令をかけてみようか」。やる氣になった男の子が号令をかけると、道場の隅々まで声が響き渡ります。一緒に稽古していた子供たちも「すごい!」と賞賛しました。これをきっかけに男の子は無駄に大声を出さなくなりました。

「声が大きい」というのはそのお子さんが持つ「性質」です。その性質が不適切な場面や方法で発現すれば、「短所」になってしまいます。適切な場面や方法で発現すれば、「長所」にもなりうるわけです。

声が大きいという性質に「短所」というラベルを貼ってしまっては、もう、そのお子さんをプラスに導くことは出来ません。性質を否定することは、存在を否定することと同じだからです。若手の指導者は、このやり取りから大切なことを学んだようでした。

人をより良く導くためには「万有愛護」の心が不可欠なのです。

次回に続きます。

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2019/07/08

Ki principles

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心身統一合氣道の稽古は「氣」に基づいて行います。英語で指導する場合には、「Ki principles」と表現します。

日本語に直訳すれば氣の原理ですが、この場合は「原理」というよりも、「働き」とした方が理解しやすいかもしれません。

「Ki principles」で特に重要なのが下記の三つです。

  •  When you are one with the universe, Ki naturally flows.
    天地(自然)と一体であるとき、氣が通う

  • When Ki flows, you can use your mind freely.
    氣が通っているとき、心を自由に使うことが出来る

  • When you extend Ki, new Ki comes naturally.
    氣が出ているとき、新たな氣が入ってくる

 一つずつ、簡潔に解説して行きたいと思います。

「天地(自然)と一体であるとき、氣が通う」

技の稽古において、相手を「投げよう」「コントロールしよう」とすると、相手とぶつかってしまい、結果として投げることが出来ません。これは自分と相手がバラバラの存在になっていることが主な原因です。相手と一体になって動くとき、相手とぶつかることなく投げられます。

ただし、相手と一体になるとは「相手に合わせる」ことではありません。十人いれば十人異なり、総ての人に自分を合わせることなど不可能です。相手に合わせようとすると、氣は滞って理解出来なくなります。

自分という存在が、外界(周囲)と一体であることによって氣が通います。そして、氣が通うから相手の状態を理解して導くことが出来ます。

物を持つときも「氣が通う」ことが重要です。剣をコントロールする意識が強いときは、自身と剣がバラバラになって剣に氣が通わなくなります。自身と剣が一体のとき、氣が通い、自由自在に使うことが出来ます。それが「筆」であっても「ゴルフクラブ」であっても同じことです。


氣が通っているとき、心を自由に使うことが出来る」

氣が通っているとき、心を向けるべきことに向けることが出来ます。氣が滞っているとき、心は一つのことに執着してしまうのです。すると、本来使うべきことに使えなくなってしまいます。

嫌なことがあったとき、それが氣になってしまって、目の前のことにまったく心が向かないという経験がありませんか。これは、嫌なことがあったことで氣が滞り、本来使うべきことに、心をまったく使えなくなっているということです。

この状態を打破するには、氣の滞りを解消するしかありません。


「氣が出ているとき、新たな氣が入ってくる」

氣が滞っているとき、氣を引くとさらに滞りは大きくなります。辛いことがあったとき、誰とも関わらず独りふさぎ込んでいると、さらに辛くなっていくものです。

氣の滞りを解消するには、氣を出すことです。氣を出すことによって、新たな氣が入ってくるからです。

精神的にたいへんなときに、思い切って行動を起こしたことで、調子が戻ったというご経験はありませんか。あるいは、誰かに話を聴いてもらうことで心が楽になった、という経験もおありではないでしょうか。

「行動を起こす」ことも「話をする」ことも氣を出すことであり、それによって新たな氣が補給されるから元氣になるのです。万物の流れにおいて滞りが生じているときは「入れる」よりも「出す」ことが重要ですが、「氣」もまた同じです。


このように「Ki principles」を正しく理解して、日常で活用をすると、自分の持つ能力を存分に発揮出来るようになります。心身統一合氣道の稽古は、「Ki principles」の実践なのです。

本年10月に新たな本を出版することになりました。今回のテーマは、まさにこの「Ki principles」です。詳細が決まりましたら、またこのブログで告知いたします。

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2019/06/03

相手の立場に立つ

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先代の藤平光一先生はたいへんな酒豪でした。私は酒豪とは程遠いので、少量のお酒を美味しく頂きます。

農口尚彦研究所」という石川県の日本酒があります。

杜氏の農口尚彦さんは現在86歳。82歳で引退されましたが、2年間のブランクを経て、酒造りに復帰されました。「若手杜氏の育成」という大きな目標を持った復帰でした。

あるご縁で、私は杜氏のつくられたお酒を、杜氏とご一緒に頂いたことがあります。私のような若輩に杜氏自ら次々と御酌をして下さるのですが、不思議なことに、杜氏はほとんどお酒を召し上がりません。

私からお酒をおすすめしようとすると、丁重に遠慮なさって、にっこりと「私は下戸で、酒はほとんど飲めないのです」と言われます。

私には「杜氏=お酒を飲める人」という先入観があったので、このお言葉に驚いてしまいました。

そして、お酒を楽しむ私に杜氏は率直な感想をお尋ねになります。酒造りの知識のない私の言葉であっても、真剣にお聴きになります。

後から知ったことですが、杜氏はお酒を飲む人の話しを直に聴き、それに基づいて酒造りをなさっているとのこと。試飲会でも、杜氏自ら最後までお客さんの相手をされるそうです。

ご自身がお酒をたくさん召し上がらないからこそ、相手がどのように感じているか、相手がどう受け取っているかをとても大切になさっているのでしょう。

杜氏は、これまでの酒造りをノートに記録を取っているそうです。ご自身の経験に基づき、酒造りの普遍性・再現性を高めています。その上で、実際にお酒を飲む人と向かい合っています。

また、酒蔵では日々身を粉にして、麹菌・酵母菌と向かい合っています。杜氏は「菌はものをいわないから」といわれます。菌を中心とした生活をしているといっても過言ではないでしょう。

杜氏として、「相手の立場に立つ」ことを実践されていたのでした。

経験や実績を積み重ねていくと、人は「理解した」氣になるものです。ひとたび理解した氣になると、自分の流儀を押し通すようになり、相手と向かい合うことが疎かになります。

それが、成長発展の最大の妨げになるのです。

これは、指導の現場にも通じることです。

相手がどのように感じているか、相手がどう受けとっているか、「相手の立場に立つ」ことによって指導技能は磨かれていきます。それがなければ、相手不在の押しつけの指導になってしまいます。

指導の経験や実績が増えれば増えるほど陥りやすいところで、私も肝に銘じなければいけない、と思いました。これを防ぐためには、「天地を相手にする」姿勢に立ち返るしかありません。

杜氏とご一緒させて頂いた時間は、掛け替えのないものとなりました。最も大事な姿勢を再認識するきっかけを頂きました。

先月、北陸に行く機会がありました。そこで、石川県小松市にある「農口尚彦研究所」の酒蔵まで足を伸ばすことにしました。

酒造りにいちばん大切なものは自然環境といわれています。水も空氣もきれいなこの地域は、観音下町(かながそまち)といい、日華石(にっかせき)の産地としても有名です。

酒蔵には、茶室をコンセプトとした「杜庵(とあん)」があります。茶室と同様の四畳半の広さで、12席のカウンタースペースがあり、四季折々の里山の情景を愛でながらテイスティングを出来ます。

その杜庵で、「酒事(しゅじ)」という日本酒体験をして来ました。五感が存分にはたらく、言葉では表すことが出来ない素晴らしい体験でした。

今はシーズンではなく酒造りを見ることは出来ませんでしたので、今度はシーズン中に再訪したいと思います。

心から美味しいと感じるお酒です。


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2019/05/07

滞りを持たない

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東京大学先端科学技術研究センター西成活裕教授は「渋滞学」という学問を確立したことで有名です。

10年以上にわたって取り組んで来た研究内容をまとめた学問で、「渋滞学」という名称は、西成先生が独自に命名されたものです。

現在では道路の渋滞に限らず、社会生活の中の様々な流れで起こる渋滞について、国や日本を代表する企業と共同研究をなさっています。約3年前から心身統一合氣道を熱心に稽古なさっています。

そんな西成先生、10連休となったこのゴールデンウィーク中は、連日、渋滞の解説のためにテレビ各局から引っ張りだこでした。

番組で西成先生が言われていましたが、連休中の渋滞は、車の数が多すぎることによって生じているので、混む時間帯を避けるしかないようです。しかし、そこまで車が多くない場合に起こる自然渋滞については、私たちのちょっとした心がけで回避することが出来ます。

「渋滞」は、最初の一台のブレーキ(減速)に端を発しています。後ろに続く車が十分な車間距離を取っていないとブレーキが連鎖し、それがさらに後方の車に伝わって渋滞となっていきます。

特に、勾配4%程度の緩やかな上り坂だとドライバーが氣づかず、無意識のうちに車が減速して、さらに車間距離が不十分だと、後続の車がブレーキを踏むことになり渋滞が起こるとのこと。

どうやら「無意識」と「車間距離」がキーワードのようです。「無意識」はともかく、「車間距離」については私たちの心がけ次第でどのようにでもなるわけですから、やらない理由はありません。

ある番組では、上空から渋滞の先頭を撮影していました。それは、高速道路の入口で車が本線に合流する場所で、三車線の流れが二車線に狭まってしまうことで生じていました。とても興味深い映像でした。

さて、「渋滞」という言葉を、「滞り」に置き換えて考えてみましょう。

どれだけ長い渋滞にも、その始まり(原因)があるように、「氣」の滞りにもその始まりがあります。

大きな氣の滞りがいきなり生じることはほとんどありません。最初はちょっとしたことで氣が滞り、それが連鎖することで、より大きな滞りに育っていくのです。

そのため、小さな滞りのうちに解消することが重要です。勿論、滞りそのものが生じなければ良いわけですが、様々な人間関係で生きる現代においては現実的ではありません。

一つのことが上手くいかないと、そこに氣が滞ってしまって、心が使えなくなってしまうことがあります。

指導先の学校で、ある学生と稽古していたときのことです。この学生には、仲良く一緒に稽古している友だちがいました。あるとき、その友だちから自分が氣にしていることを言われ、とても嫌な氣持ちになってしまったようでした。

友だちのひと言によって、氣が滞ってしまったのでしょう。

すると、氣が滞った状態で友だちと接しているので、今度は、その友だちの言うこと、やること総てが氣になってしまって、「もう一緒に稽古したくない」と言うのです。

私は直接この話題には触れず、稽古を始めることにしました。稽古そのものが「氣を出す」ことですから、それによって、氣の滞りが解消することが少なくないからです。

稽古の後、この学生はバツが悪そうに私のところにやって来て、ひと言、「氣が滞っていました」と言いました。稽古して氣が出たことで、自分の状態を認識できたのでしょう。

私は「稽古で氣の滞りが解消したのであれば良かったですが、滞りの原因を放置してしまったら、またすぐに戻ってしまいます。どうしたら良いと思いますか」とその学生に尋ねてみました。

学生は考えた末、自分が傷ついた事実を友だちに冷静に伝えました。それを聞いた友だちはとても驚いて、すぐにこの学生に謝りました。その友だちとしても自分の意図とは違って伝わっていたようでした。

氣の滞りが解消してお互いにスッキリしたのか、その後は何事もなかったかのように一緒に稽古するようになりました。この二人にとっては、大事な人生経験となったようです。

人間関係においてちょっとした氣の滞りを持つと、どんどん大きな氣の滞りに育っていきます。そして氣が滞った状態で物事にあたると、他のことまで上手くいかなくなります。これは恐ろしいことです。

だからこそ、氣の滞りは、一瞬たりとも持つべきではありません。特に、家族・友人・仕事のパートナーなど、身近な人だからこそ、ちょっとした氣の滞りが生じた瞬間に対処することが重要なのです。

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