2020/05/01

氣の滞りを持たない

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新型コロナウイルスの感染抑制のため、緊急事態宣言が発令され、現在では対象地域が全国に拡がっています。

緊急事態措置の期間も延長される可能性が高く、ここしばらくは様々な自粛のなかで生きていくことになります。

人間は、日頃当たり前のように出来ていることが出来なくなると、無意識のうちに氣が滞ってしまいます。

氣が滞ると心を自在に使えなくなり、心の働きが鈍くなっていくのです。

多くの人は、こんな社会情勢だから「前向きでありたい」と願っています。しかし、ただ願うだけでは、それは実現しません。

それには、氣の滞りを持たないことが大切です。


心身統一合氣道の稽古は、「氣を出す」ことを目的としています。

緊急事態措置の期間は全国の総ての道場で稽古を休止しています。

感染拡大を防ぐことは社会の一員としての当然の責務ですが、本来の活動目的を果たせないままでは存在意義がありません。

そこで、本部道場(東京)では4月から新たにオンライン稽古を始めました。この1ヶ月間で、延べ1,000人を超える皆さんがオンライン稽古に参加されました。

520畳ある天心館道場(栃木)と異なり、本部道場は限られたスペースなので、これは平時よりもかなり多い人数です。

日頃学んでいることを「今こそ実践しよう」とする積極的な姿勢に、指導させて頂く立場として、私はたいへん感銘を受けました。

オンライン稽古では、心身統一合氣道の根幹である「氣」に基づき、氣の体操法・氣の意志法・氣の呼吸法を重点的にお伝えしています。

これらは、氣の滞りを持たないための具体的な方法だからです。

氣の体操法は、主として身体の面から氣の滞りを予防します。英語では「Ki Exercise」と表現します。

氣の意志法は、主として心の面から氣の滞りを予防します。英語では「Ki Meditation」と表現します。

氣の呼吸法は、呼吸を通じて氣の滞りを予防します。英語では「Ki Breathing」と表現します。

心身は一如なのですから、本来は「心だけ」「身体だけ」という訓練は存在しません。「主として」とは、心と身体のどちらに目を向けるかという意味です。

氣の呼吸法に関しては、藤平光一先生のご著書『氣の呼吸法』(幻冬舎文庫)がありますので、是非ご活用下さい。


私は藤平光一先生から「今をみて、今を生きる」ことを教わりました。

新型コロナウイルスの感染が始まる前に戻ることは出来ません。戻ることを期待して何もしないのは「過去をみて、過去を生きる」ことです。

今をみて、受け入れ、適応することで私たちは生き残ることが出来ます。周囲は出来ないことだらけでも、今の自分に出来ることは必ずあります。そこに全力を尽くすことで、未来が拓かれて行きます。

その原動力となるのが「氣が出ている」ことなのです。

この逆境を精神論だけで乗り越えていくことは不可能です。何よりもまず、日常生活において氣の滞りを持たないことが重要であり、氣が出ているから「前向きな心」であり続けることが出来ます。

特に、私たち指導者は、日頃「氣を出す」ことを教えているのですから、今こそ、自らそれを実践するときです。

《音声はこちら》

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2020/04/01

《音声付き》生き残る

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「種の起源」のダーウィンによる、あまりにも有名な言葉があります。

 生き残る種とは、最も強いものではなく、最も知的なものでもない。
 それは、変化に最もよく適応したものである。

連綿と繋がっていく生命において、重要なのは適応だということです。

新型コロナウイルスの世界的な感染の拡がりによって、私たちを取り巻く社会情勢は、想像もできないほど変化しています。

今まで当たり前のように出来てきたことが、出来なくなっています。この状況だけをみれば、悲嘆するしかありません。

心身統一合氣道会には全国で350箇所に道場・教室がありますが、何とか稽古を出来ているところ、全く稽古を出来ていないところ、地域によって状況は様々です。

海外の状況はもっと深刻で、一部の国では外出禁止令が出されていて、稽古などの活動は完全に出来なくなっています。

もし、日本のどこかで同じように爆発的な感染拡大が生じた場合は、道場・教室の活動は、間違いなく出来なくなってしまうでしょう。

それは、私たちが世の中の役に立てなくなることを意味しています。


心身統一合氣道の創始者である藤平光一先生は、「氣を出す」とは、「出来ないことに執着せず、出来ることを見つけて全力を尽くす」
ことだと、日々、道場で説いていました。

調子の良いときに氣が出ているのは当たり前。調子の悪いときに、いかに氣が出ている状態を維持できるか。それこそが「稽古」であると教わりました。

ああ、今こそ稽古なのだな、と思います。

最悪の状況を想定したとき、私たちに一体、何が出来るだろうか。

その一つとして、「Zoom」というオンライン会議サービスを用いて、一部の道場で、オンラインの稽古を試験的に始めることにしました。

勿論、感覚の伴う稽古は、実際に道場でしなければ出来ませんが、そうでない稽古も少なからずあります。むしろ、オンラインだからこそ、集中的に出来る稽古もあります。

外出自粛で自宅から出られないと、氣は滞りやすいものです。ひとたび氣の滞りが生じると、心身共に様々な不具合を起こします。

心身統一合氣道の稽古は「氣を出す」ことが目的です。

このオンラインの稽古を通じて、氣の滞りを解消するサポートを私たちは出来るのではないかと考えています。オンラインですから、世界に向けて発信することが出来ます。

こんなことは、平時であれば全く考えなかったかもしれません。「稽古は道場ですべきもの」という固定観念が根強く、環境が変化したからこそ、チャレンジ出来ることだと思います。

混迷の時代ゆえに、なすべきことがあると信じています。


生命の本質は「生き残る」ことです。

生き残るためには、適応することが最も重要です。現状を否定せず、総てを受け入れて、出来ることを探すことです。

新型コロナウイルスの影響も、永遠ではありません。生き残りさえすれば立ち上がる機会は必ず訪れます。

この逆境を、ご一緒に乗り越えて参りましょう。

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2020/03/05

《音声付き》最も大事なのは何か

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「新型コロナウイルス」が世界的に感染の拡がりをみせています。

この未知のウイルスは、予防法や治療法がまだ確立されておらず、ご高齢の方、既往症のある方は特に重篤化するリスクが高い。

終息の目処も立っておらず、先のことは誰にも分かりません。日々、状況が変化するなかで、私は様々な判断を下しています。

このような状況下で、本年の秋に予定していた国際的な行事を、来年(2021年)に延期する決断をしました。

多くの皆さんがすでに日本渡航の計画を立て始めているので、延期の判断はがっかりさせたに間違いありません。

日本でお迎えする私たちにも大きな経済的損失があります。また、一緒に準備を進めてきた各方面の皆様にも影響が生じます。

秋の行事の判断を今することにも、様々な議論がありました。「判断が早すぎる」という意見も聞かれました。

未来のことは誰にも分かりませんので、私たちに限ったことではなく、こういう判断は本当に難しいものだと思います。


実際のところ、リスクを回避する上では「何もしない」のが一番です。

しかし、それは「身体を使わなければ弱くなる」のと同じで、リスクを回避することだけを考えていては、組織はどんどん弱くなっていきます。弱氣が蔓延すれば、組織全体で士氣が阻喪(そそう)してしまいます。

さりとて、「無理をすれば身体は故障する」のと同じで、リスクを考慮せずに強行をすれば、組織は取り返しのつかない失敗をするかもしれません。人の命に関わることは、まさにそれです。

こういったことが、決断をさらに難しくさせています。そして、決断が遅れるほど、参加者への影響は大きくなります。


このような時、私は「最も大事なのは何か」を考えるようにしています。

組織の長として、私は「人」をもっとも大事に考えています。言い換えれば、信頼関係を大事にしています。

決断にあたっては、まず海外の各地域の責任者にヒアリングをしました。それこそ多種多様な意見がありましたが、私にみえてきたのは、参加者の先にいる「ご家族の顔」でした。

参加者は積極的な方々ですから、多くの人は本年の夏頃には感染が終息すると信じて、「ぜひ日本を訪れたい」と考えています。

しかし、そのご家族は、このような現状で海外渡航の計画を立てることに大きな懸念を持っています。

ご家族はいったいどんな「思い」で、大事な人を送り出すのだろうか

指導者・会員はご家族の理解があって活動を出来ます。ゆえに、私はご家族との信頼関係も大切に考えており、開催を強行すれば、ご家族は心身統一合氣道が「人を大切にしている」とは感じなくなるでしょう。

私たちの活動において「最も大事なのは何か」を考えたとき、長期的な視点において、これが最も良い判断だと確信しています。

勿論、この決断が本当に正しかったかは、これから分かることです。いずれ、しっかり検証したいと思います。

新型コロナウィルスが終息し、安心して海外渡航出来るようになった後、今度は出来ればご家族の皆さんと共に日本にお越し頂き、ご一緒にご生誕100年のお祝いをしたいと思います。


決断にあたっては、「氣の呼吸法」に助けられました。心が静まっているとき、「最も大事なのは何か」が分かるからです。

「出来ないこと」にとらわれず、「出来ること」に全力を尽くす。それが「氣を出す」ことだと私は学んで来ました。

このよう社会情勢では、身の回りは「出来ないこと」で溢れています。こんな時だからこそ、氣を出すことを実践して参ります。

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2020/02/03

性質をみる

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先日、地方で宴席に出たときのこと。

東京から参加していた青年が、手違いで宿泊先が確保出来ておらず、どうしたら良いか困っている様子でした。

青年は、見た目に厳しそうな先輩と一緒に来ていました。それを知った先輩は、スマートフォンを取り出して調べ始めました。電話をするため宴席を中座もしていました。青年は恐縮して待つばかりでした。

しばらくして先輩が戻り、予算内で宿泊先を確保出来たことを伝え、宿泊先と住所と連絡先を書いたメモを青年に渡したのでした。そしてひと言、「チェックイン出来たら連絡よこせよ!」と声をかけました。

そのときに先輩が発している氣をみて、何とも言えない温かさを感じました。青年はそんな先輩を心から慕っている様子でした。

性質は「氣」によって伝わります。

「性質をみる」とは、頭で考えて分析することではありません。心が静まっているときに、自然に感じ取れるものです。

企業や学校などの講演で「性質をみる」という話題に触れると、性質をどのように言葉で表現するか、あるいは数値化できるか、そういった質問がたくさん出て来ます。

藤平光一先生は「言葉に出来るとしたら性質ではない」と説きました。

「性質をみる」とは、ありのままを感じ取るということであって、言葉に置き換えた瞬間に、それは別物になってしまうでしょう。性質をみるのに、言葉にする必要はないということです。

実際のところ、「性質をみる」ことは決して簡単でありません。

私たちは、「好き」「嫌い」、「合う」「合わない」といった自分の物差し、あるいは、自分の価値観で人をみています。相対的世界に生きているわけですから、それは仕方のないことです。

しかし、人と接するとき、物差しや価値観が先立ってしまうとしたら、性質をみることは難しくなります。さりとて、そういったものを完全に捨てることも出来ません。

いったいどうしたら良いのでしょうか。

唯一の方法は、「心を静める」ことです。

湖面を思い浮かべて下さい。風がない日に、湖面の波が無限小に静まると、鏡のようになります。すると、月は月として、鳥は鳥として、そのままの姿を映し出します。

湖面が波立つと、月も鳥もその姿を正しく映し出さなくなります。イライラして心が波立っているときは最たる例です。

心の状態も同じことで、心を静めることでありのままを映し出します。このとき、「性質をみる」ことが出来るのです。

心を静める訓練として、私たちは臍下の一点に心を静めることを学び、そして、氣の呼吸法を実践するのです。

性質を理解するからこそ、その人の能力を引き出すことが出来ます。人を導く立場にある者は、これを肝に銘じなければいけません。

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2020/01/06

性質と能力

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宮大工の世界では「木の性質をみる」ことが重要とされています。

同じ種類の木でも、北向き・南向きなど場所によって質が異なり、建物に使用するときは生えていた環境をふまえて用いるそうです。木の性質を見極めて、適材適所で活かすことが求められています。

藤平光一先生は、「心とは性質である」と説きました。木や石にも心はあり、野菜にも心がある、ということです。

人参には人参の性質があります。大根には大根の性質があります。人参に白粉をつけても大根にはなりません。人参の性質を理解するからこそ、人参の良さを引き出せます。

勿論、人間も一人一人異なる心(性質)を持っています。

その性質が適切に表れるのが「長所」であり、反対が「短所」です。「長所」「短所」という性質があるわけではありません。

長所と短所は表裏一体のようなもので、発現の仕方が変わることで、短所が長所に変わることも少なくありません。

人をより良く導いていくためには、その人の心を真っ直ぐみること、すなわち、性質を理解することが不可欠なのです。

 「性質」は、「能力」と混同されることがあります。

先日、ある親御さんからお子さんの反抗について相談を受けました。そこで、親御さんにみえるお子さんの性質を尋ねることにしました。

親御さんは「学校の成績は悪くないです」「運動は得意です」「英語が出来ます」と説明されるのですが、私は何ともいえない違和感を覚えました。それはお子さんの「能力」であって、「性質」ではないからです。

お子さんは日頃どんなことを大事にしているのか、お子さんは日頃家族や友だちとどう接しているのかを知りたかったのですが、この親御さんからは、最後までそういう話は聞けませんでした。

私は、反抗の原因はそこにあるのかもしれない、と感じました。「人=能力」という捉え方をしていると、その人の性質をみていないので、心を無視しているからです。存在の否定になってしまうのです。

能力偏重の社会では、学校でも会社でもこの捉え方が土台にあるので、「能力がない=存在する価値がない」と考えられています。家庭までそうであったら、お子さんの居場所はなくなってしまいます。

また、特別な能力を持つことで存在する価値が得られると考える人もいます。「人=能力」と捉えてしまうと、能力を持つ者を妬み、持たない者を蔑みます。それは、出口のない迷路に迷い込むようなものです。

能力は大事なものです。そして、能力は一人一人が持つ性質を正しく理解することで発揮されます。

人の性質を理解することは決して簡単ではありません。言葉に出来ないものであり、「氣」で伝わるものだからです。

一度の機会、短い時間で見極められれば良いのですが、私の場合、日頃のたくさんの細かなやり取りを通じて、少しずつ理解出来ます。

例えば、無口のお子さんは、一見すると「活発でない」ようにみえますが、感じたことを書いてもらうと、実はたくさん話をするお子さんより、物事を注意深く物事をみているのが分かることがあります。

「氣」を通じて相手の性質を理解するプロセスこそ、人を導く上で最も重要ではないかと私は思います。

心身統一合氣道の道場・教室は、性質を理解する場でありたい。性質が適切に発現することで、能力が発揮される場でありたい。

本年の最も大切なテーマの一つです。

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2019/12/02

「氣を出す」とは何か(2)

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私が指導者となってからの話です。

藤平光一先生の内弟子修行が始まり、間もなく指導の現場を頂きました。20人ほどの皆さんが通う大人クラスでした。大学合氣道部で稽古の統率を取る経験はありましたが、氣の理解は足りず、指導技能も不十分で、人間性も未熟な中での指導でした。

始めは多くの人が通って下さっていましたが、一人、また一人と減って、冬の氣候が厳しい時期には、ついには男性お一人になってしまいました。その方もおそらく「自分が休んだら稽古が成り立たなくなってしまう」と、責任感で通って頂いていたのかもしれません。

師匠からお預かりしたクラスを、ここまで人を少なくしてしまったことに、私はいたたまれない氣持ちになっていました。そんなときは、不思議と技もうまくいかないことが多かったのです。

私が相当に思い詰めた顔をしていたのでしょう。あるとき、ついに稽古のことで藤平光一先生から呼び出されました。

師匠 「最近、稽古に来る人が少なくなっているそうだな」
私  「申し訳ありません!一生懸命やってはいるのですが...
師匠 「お前は自信がないのだな?」
私  「はい...。うまくいかない技もたくさんありますので」
師匠 「なぜ、うまくいかないか分かるか?」

「なぜ」と言われても、それが分かっていれば苦労はありません。何も答えられず、私は黙り込んでしまいました。

手を抜いていることは一つもない。単に実力の問題ではないだろうか。あるいは、自分には才能がないのではないだろうか。そんな私の考えを総てお見通しだったのでしょう。

師匠 「実力や才能ではない。それは、お前が氣を引いているからだ。出来ないことではなく、出来ることに心を向けなさい」

それだけ私に伝えて、藤平光一先生はその場を後にしました。

私は心身統一合氣道の継承者となるべく修行を始めましたので、皆さんに認めて頂けるかどうかばかりを考えていました。今の自分に出来ること以上のことをやろうとしていたのですから、出来ないことを一生懸命やっていたのと同じです。

それでは、いまの自分にいったい何が出来るだろうか。始めは何もないかと思いましたが、冷静になればたくさんありました。

稽古に来られる皆さんが、少しでも氣持ちよく過ごすことが出来るよう、今まで以上に道場を掃き清めることが出来るのではないか。

心からプラスの笑顔で皆さんをお迎えしたり、お見送りしたり出来るのではないか。

自分には何の解決も出来ないとしても、一人一人にしっかり心を向け、お話をお聴き出来るのではないか。

こういったことであれば、指導技能に関わらず出来るはずです。自分には能力や才能がないと決めつける前に「出来ることに全力を尽くしてみよう」と心に決めたのです。

それでも、しばらくは人数が少ない期間が続きました。冬が終わり春を迎える頃になって、稽古に来られる方は徐々に増え、初夏の頃には、最初にお預かりした人数よりも多くなっていました。

何よりも不思議だったのは、それまで全くうまくいかなかった技が、自分でも驚くほど出来るようになっていったことでした。「心身統一合氣道の五原則」の最初は「氣が出ている」なのですから、今となれば決して不思議なことではありません。

 「出来ないことにとらわれて思い悩むのではなく、出来ることをみつけて全力を尽くす」

これこそ「氣を出す」ことだと、過去の体験と繋がったのでした。

今でこそ、私は国内外で多くの皆さんに指導させて頂いていますが、このときの初心を忘れず、指導の現場に立ち続けたいと思います。

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2019/11/01

「氣を出す」とは何か(1)

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「氣を出す」とは何か。

氣が滞ると、心を自在に使うことが出来なくなります。このとき、氣を出すことによって、氣の滞りが解消されます。氣を出すことによって、新たな氣が入ってくるからです。

このことは、「渋滞」の持つ性質ととても良く似ていることが、新刊での西成活裕先生との対談で分かりました。氣も流れである以上、流れには渋滞が起こりうるということです。

私は2歳くらいから心身統一合氣道の稽古をしていますが、子供の頃は、氣を出すことが良く分かりませんでした。「何を」「どうする」ことなのか具体的でなかったのです。

その頃、こんな出来事がありました。当時、有段者を目指して熱心に稽古なさっていた方がいました。

不運なことに、この方は交通事故に遭い、大きな怪我を負って、ほとんど動けない状態になってしまいました。当時の医療では、元通りに回復する見込みはなかったのです。

周囲の人たちが「もう稽古は出来ないだろう」と感じていた中、しばらくして、付き添いの方と共にご本人が道場に来られました。予定していた審査を受けさせて欲しい、と言われるのです。

技は全く出来ませんが、号令や氣合いならばかけられるとのこと。

当時の指導者たちは困惑して、この方だけ特別扱いは出来ないと、申し出を断るべきではないかと話し合っていました。藤平光一先生がこの話を耳にしたのは、ちょうどそのときでした。

事情を聴いた藤平光一先生は指導者たちを集めて一喝しました。

「お前たちは日頃、いったい何を教えているのか。この方は、事故によって技の動きは全く出来なくなってしまった。しかし、出来ないことに絶望するのではなく、出来ることを探し、それに全力を尽くそうとしている。これを、氣を出すというのだ。よく覚えておけ!」

審査を受験したこの方は、見事な号令をかけていました。

審査に立ち会った藤平光一先生はにっこりと「合格です」と言われ、氣を出すことを実践するこの方に最大の賛辞を送りました。それに対して、この方は「これからも氣を出していきます」と応え、その眼から大粒の涙がこぼれていました。

心身統一合氣道は「氣を出す」ことを目的に稽古をしています。当時も私は知識としては教えられていましたが、この出来事を通じて、「氣を出す」とは何かを学びました。

ときに、私たちは逆境に直面します。そんなときは、周囲は「出来ない」ことでいっぱいになっています。

そこで、出来ないことにとらわれて腐ってしまうのか、出来ることを探して、それに全力を尽くすかでは、人生は大きく変わることでしょう。たいへんなときだからこそ、「氣を出す」ことが必要なのです。

このことはその後、私が指導者になってから深く学ぶことになります。

次回に続きます。

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2019/10/01

誦句集「座右の銘」(3)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。


氣が通うために、もっとも重要なのは「氣を出す」ことです。氣を出すことで新たな氣が入って来て、氣が通うようになるのです。人間本来の状態に戻ることが出来ます。

流れにおいては、「出せば入ってくる」という性質があります。先に入れようとすると、流れはかえって滞ってしまうのです。

「氣」をバッテリーの様に捉えると、ためて消費するわけですから、少しでも節約した方が良い、という考えになるかもしれません。ここでいう「氣」は、そうではありません。氣が通うことによって力を得るのです。


原因は分からないのに、何となく調子が悪いときがあります。閉塞感やイライラなど、表れる症状は様々です。誰しも経験があるのではないでしょうか。そういうときは、氣が滞っていることが多いのです。

氣が通っているときに、心を自在に使うことが出来ます。言い換えれば、氣が滞っているときは、心を自在に使えません。心の働きが鈍くなることで、何となく不調を感じるのでしょう。

こんなときは、ただ待っていても良くなることはありません。「氣を出す」ことが重要です。


ただし、氣を出すといっても初めての方には良く分かりません。そのため、「心身統一の四大原則」があります。氣を出すとは具体的にどういうことかを置き換えているのです。

  心身統一の四大原則

  一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
  二、全身の力を完全に抜く。
  三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
  四、氣を出す。

「心身統一の四大原則」はよく、山頂に至る四つの異なる登り道に例えられます。どの道を用いても、最終的に同じ目的地にたどり着きます。

例えば、氣を出すとは「心を静める」ことと同じということです。また、全身リラックスして身体の隅々まで滞りのない状態であり、落ち着いている状態でもある、ということです。

その人によって、あるいは、そのときの状況や環境によって、もっとも取り組みやすい方法を選べば良いのです。

四大原則は、一つが備わっているときは、他の三つも備わっており、一つが備わっていないときは、他の三つも備わっていません。四つ総てを同時に行う必要はなく、どれか一つを行うことです。


ご参考までに、それに対して、「心身統一合氣道の五原則」は、人を導くための具体的なプロセスです。同じ原則でも、四大原則とは性質が異なるので注意が必要です。

  心身統一合氣道の五原則

  一、氣が出ている
  
二、相手の心を知る
  三、相手の氣を尊ぶ
  四、相手の立場に立つ
  五、率先窮行(そっせんきゅうこう)


道場での稽古は「氣を出す」ことを目的に技を練っていきます。そのため、稽古することで、氣の滞りが解消されやすいのです。氣が滞っているときほど、稽古をすべき理由がここにあります。

三回に渡って、誦句集の「座右の銘」を解説して参りました。座右の銘を正しく理解することで、正しい目的で稽古を出来ます。

皆さんの理解が深まりましたら幸いです。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/09/02

誦句集「座右の銘」(2)

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前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。

心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

ここで初めて「心身を統一する」という言葉が出て来ました。

心身統一合氣道の「心身統一」で、心身統一とは「天地と一体である」ことを指します。

しかし、多くの人が「心と身体の統一」と間違えて捉えています。もし、この理解だとしたら、自分の心と自分の身体の統一なので、「個」のなかで完結することになってしまいます。

「天地と一体である」とは、外界とつながりを持つことであり、それによって周囲のことを理解し、導いていくことが出来ます。心身統一合氣道の稽古の根幹です。

「心と身体の統一」という理解は、まさにそれとは逆なのです。稽古の目的を誤って理解すれば、稽古の方法が変わってしまいます。


私たちは天地の一部の存在で、そのつながりによって生きています。

例えば「呼吸」も、天地とのつながりの一つです。体内に空氣を取り入れ、全身に酸素を送り、二酸化炭素を回収し、また体外に出します。このつながりが滞ってしまったら、たいへんなことになります。

天地とのつながりがなくては生きることは出来ないにも関わらず、私たちはときに、行き過ぎた「個」の意識を持つことによって、あたかも自分独りで生きているような錯覚に陥ります。

そんなときに、様々な不具合が生じるのです。

「天地と一体である」とは、特別な状態ではなく、本来の状態であり、自然な状態であるということです。

誦句集の一文をより丁寧に記述するのであれば、こうなるでしょう。

心身を統一し、即ち、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。


わたしたちは「氣」を通じて、天地とつながりを持っています。

そのつながりが確かなとき、氣は自由に行き来して活発な状態にあります。その状態を「氣が通っている」と言います。

つながりが不確かなとき、氣は自由に行き来出来ず停滞した状態にあります。その状態を「氣が滞っている」と言います。

海中で、海の水を両手で囲うとします。自分の手の中にある水は、「わたしの水」と言えるかもしれません。しかし、実際には「海の水」を自分の手で囲っているに過ぎません。

手で囲った水が海の水とつながりを持ち、自由に行き来していれば、手で囲った水が淀むことはありません。しかし、水の行き来が停滞すると、手で囲った水は淀んでいきます。

「氣」も同じです。

天地の「氣」を自分という存在によって囲っていると考え、氣が自由に行き来していれば、氣が淀むことはありません。

しかし、天地とのつながりが弱くなると、氣は自由に行き来を出来ず、次第に淀んでいくことでしょう。

氣の滞りは、心身の不調や人間関係の問題となって表れるので、「氣が通っている」ことが最も重要だということです。

そして、心身統一する(天地と一体である)ための具体的な方法が、「心身統一の四大原則」なのです。

次回に続きます。

【参考】誦句集

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

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2019/08/01

誦句集「座右の銘」

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心身統一合氣道では、稽古の始めに全員で「誦句集(しょうくしゅう)」を唱和します。心身統一合氣道の創始者である藤平光一先生が、心身統一合氣道の重要な教えを22の項目にまとめたものです。

その中でも最初の「座右の銘」は、心身統一合氣道を学ぶ者にとって、修行の目的が明確に記された最も重要な内容です。多くの皆さんから質問を受けることから、ここで解説したいと思います。

「座右の銘」の全文は下記の通りです。

一、座右の銘

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。

心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。

座右の銘は、「万有を愛護し...」から「...眼目である」までの前半と、「心身統一の四大原則」以降の後半から成り立っています。前半部分には「何をすべきか(what to do)」が記されていて、後半部分には「どう実行するか(how to do)」が記されています。

それでは一文ずつ解説して参ります。

万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。

天地の心の「心」とは、この場合は「性質」を表しています。「天地」とは、今の言葉に置き換えれば「大自然」を指します。平易に説けば、天地の心とは「大自然の性質」といえます。

大自然の性質そのものに、「プラス」も「マイナス」もありません。生命が始まるのも、生命が終わるのも、同じく大自然の性質です。私たちは、その大自然の性質に身を委ねています。

他方で、私たちの心には「プラス」と「マイナス」があります。大自然の性質を受け入れて、プラスに活かすことが出来ます。

プラスに向かうのか、マイナスに向かうのかは最も重要な選択です。

プラスの人生を望むのならば、プラスに向かうことが自然であり、マイナスに向かうことは不自然です。それはちょうど、北に行きたいならば北に向かって歩むことと同じです。北に行きたいのに南に向かったら到達できません。

「万有を愛護し、万物を育成する」大自然の性質をプラスに活かして、自らの心のあり方としよう、ということです。

 さて、「万有を愛護する」について、もう少し補足したいと思います。

「万有」と「万物」の意味は、現代の国語辞典で調べるとどちらも、「宇宙に存在する総てのもの」とあり、違いが良く分かりません。誦句集では、「万物」とは「宇宙に存在する総てのもの」、「万有」とは「総てのものが持つ性質」を指しています。

「万有を愛護する」とは、それぞれが持つ性質を良くみることです。

私たちが人をみるとき、「長所」「短所」という言葉を用いますが、それはその人の性質を周囲が主観的に判断したもので、実際に「長所」「短所」という性質があるわけではありません。事実、長所と短所は表裏一体で、ちょっとしたきっかけで、短所が長所に変わります。

ある子供クラスでの出来事。

小学校高学年の男の子は、稽古中にとても大きな声を出します。一緒に稽古する子供たちは、その子のことをうるさく感じたり、怖がったりしていました。若手の指導者が「うるさいから静かにしなさい」と注意すると、その子はふてくされ、さらに大きな声で周囲に迷惑をかけます。

そんなときに先輩の指導者がやって来ました。

事の詳細を聞いた先輩の指導者は、男の子のところに行って、稽古する様子をしばらく見守っていました。稽古後、先輩の指導者は男の子のところに歩み寄り、「君は声が大きいね!すごいね!」と声をかけました。てっきり怒られると思っていた男の子はキョトンとしています。

先輩の指導者はこう続けます。

「それだけすごい声なのだから、体操の号令をかけてみようか」。やる氣になった男の子が号令をかけると、道場の隅々まで声が響き渡ります。一緒に稽古していた子供たちも「すごい!」と賞賛しました。これをきっかけに男の子は無駄に大声を出さなくなりました。

「声が大きい」というのはそのお子さんが持つ「性質」です。その性質が不適切な場面や方法で発現すれば、「短所」になってしまいます。適切な場面や方法で発現すれば、「長所」にもなりうるわけです。

声が大きいという性質に「短所」というラベルを貼ってしまっては、もう、そのお子さんをプラスに導くことは出来ません。性質を否定することは、存在を否定することと同じだからです。若手の指導者は、このやり取りから大切なことを学んだようでした。

人をより良く導くためには「万有愛護」の心が不可欠なのです。

次回に続きます。

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