2022/09/01

氣圧法の研究論文について

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心身統一合氣道会は世界24カ国で、約3万人が稽古しています。

アメリカ・オレゴン州に拠点をおく支部(Oregon Ki Society)では、心身統一合氣道の活動と共に、「氣圧法」の活動を精力的に行っています。

氣圧法は心身統一合氣道に基づく健康法で、氣が出ている状態で相手に触れ、リラックスすることにより血行が良くなって、様々な不具合が改善します。相手の痛いところは痛みが軽減し、固くなっているところは柔らかくなります。

簡単にいえば、不調を生み出す氣の滞りを解消するための大事な健康法です。心身統一合氣道において、重要な学びの一つです。

キャルビン田端先生(心身統一合氣道8段)を中心とした主要メンバーは、長年に亘って藤平光一先生から直に氣圧法を学び、海外では唯一、オレゴン州で氣圧法スクールを開講することを許されました。

多くの会員の皆さんが現地で氣圧法を学んでいます。


このたび、指導者であり、医師でもあるテリー・コッパーマン博士たちが氣圧法の臨床研究を進め、医学雑誌に学術論文が掲載されました。

雑誌にはインパクトファクター(IF)という格付けにあたる数値があり、IF3点以上ある信頼性の高い雑誌です。ここにご紹介いたします。

Beneficial Effects of Kiatsu with Ki Training on Episodic Migraine 


医学論文を精読することはなかなか難しいため、順天堂大学大学院医学研究科 公衆衛生学講座 主任教授の谷川武先生に、この論文の解説をお願いすることにしました。

谷川先生は「氣圧法が既存の代替医療に切り込むための歴史的な一歩で、西洋医学の厳密かつ実証的な方法論を踏まえて実験を行い、氣圧法が確かな効用を持つ可能性を示したことに大きな意義がある」と言われます。

この論文では、主に「片頭痛」について述べられています。

片頭痛は世界的に見ると有病率の高い神経疾患で、薬物療法には副作用が伴い、既存の代替医療にも費用が高額であったり、利用可能なクリニックが限られていたりする等の点で限界があるそうです。

氣圧法が片頭痛に悩む女性に持続的な効用をもたらし、片頭痛の頻度を有意に減少させ、QoLQuality of Life)スコアを改善し、薬の使用を減少させる有望なアプローチであることが明らかになりました。

特に大事なことは、氣圧法だけではなく、氣のトレーニング(心身統一道)と組み合わせることによって、効果を上げている点です。

氣圧法によって片頭痛の症状が改善され、さらに氣のトレーニングを継続することで効果が持続される可能性も分かりました。公衆衛生学を専門とする谷川先生は、特にこの点に着目なさっていました。


今回の研究は、氣圧法と氣のトレーニングを世の中に知らしめたいという、現地の指導者たちの情熱によってはじめて実現しました。

日本においても、谷川先生と連携して研究を進めていくことになりました。日本には長年培われた経験知がありますので、氣圧法と氣のトレーニングの効果をしっかり実証して参ります。

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2022/08/01

良いところを見つける

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ハワイでの講習会で、私が藤平光一先生のお供をしたときの話です。

アメリカ人の青年が母親と一緒に見学していて、講習が終わった後に藤平光一先生にところに挨拶に来ました。

お母様の話を聞けば、藤平光一先生が合氣道の普及のためハワイに長期滞在していた時期に、お子さんを道場に通わせていたようでした。

当時はひどい悪戯っ子で、お母様はたいへん手を焼いていて、道場に救いを求めていたそうです。

藤平光一先生もすぐに思い出して、会話に花が咲いていました。当時を知らない私のために、お母様が詳しく話をしてくださいました。

お母様が最初にお子さんの相談をしたとき、「息子は落ち着きがなくて悪戯ばかり、良いところが一つもありません」とこぼしたそうです。

それを聞いた藤平光一先生は、「どの子にも必ず良いところがあるのだから大丈夫。一度、道場に連れていらっしゃい」と、稽古に参加させて様子を見ることにしました。

実際に会ってみると、なるほど、ものすごい悪童で、さすがの藤平光一先生も手を焼いたそうです。その様子を見ていたお母様も「ほら!私の言った通りでしょう?」という表情……。

稽古後に藤平光一先生はそのお子さんと二人で話をすることにしました。てっきり怒られると思ったのでしょう。身を小さくしています。

 「君の良いところを見つけようと思ったが、今日は見つけられなかった。次こそ必ず見つけるから、また稽古にいらっしゃい!」

お子さんは怒られないと分かって安心したのか、「分かった!また来る!」と言って、元氣に帰って行きました。

その後、お子さんは稽古を始めました。良いところを見つけるたびに、藤平光一先生は「良いところを見つけたよ!」と声をかけ続けました。稽古を見学していたお母様は、そのやり取りを見守っていました。

そのうちに、少しずつ落ち着きを見せ、お母様を悩ませていた行動も少なくなっていきました。その変化をみたお母様は、自分が子どもの悪いところばかりを意識的に探していたことを自覚したのだそうです。

藤平光一先生が日本に帰国する際に見送りに来たお子さんは、泣いて、しばらく側を離れようとしなかったそうです。


それから20年が経ち、その悪童が立派な青年となっていたのでした。

お母様も大きくなった我が子を「親思いで自慢の息子です」と言われ、「あのときの経験が私たちの人生を変えました」と涙ぐみながら、藤平光一先生に感謝を伝えていました。

このときの親子の表情が、今でも私の印象に深く残っています。


「悪いところを直す」のではなく「良いところを伸ばす」、頭では理解できても、実行するのは簡単なことではありません。

良いところを伸ばすためには、時間と手間をかけて、相手の良いところをみつける必要があるからです。少し触れただけでは分からないことが多く、愛情をもって、注意深くその人をみることで理解できます。

相手を理解することではじめて相手は良くなります。そのために、「心を静める」「呼吸を静める」といった訓練が大きな助けとなるのです。

悪いところを指摘するだけであれば、そこまで努力は必要としません。手っ取り早く安易だからこそ、そこに陥りやすいのでしょう。しかし、悪いところを指摘するだけでは決して良くなりません。

心身統一合氣道の稽古においても同じこと、「悪いところを指摘する」だけでは指導とはいえません。指導とは「相手ができるようになるまで導く」ことであり、だからこそ指導者は常に学ぶ必要があるのです。


野球評論家の広岡達朗さんは、歯に衣着せない発言をされます。

広岡さんは「良いものは良い、悪いものは悪い」と忖度無く述べているだけで、「どうしたらその人が良くなるか」をよくみて、考え続けています。いったん育成すると心に決めた相手は、最後まで面倒をみます。

私は、そこに指導者としての「あるべき姿」を感じるのです。

ときに私自身も、相手の「足りないところ」に目がいきます。その都度、「良いところを見つける」基本に立ち返っています。

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2022/07/01

理解は氣で伝わる

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大学受験のために、駿台予備学校に通っていた頃の話です。

秋山仁先生(現:東京理科大学特任副学長)の数学の授業がありました。この授業は無類に面白くて、受験のための勉強が好きでなかった私も、欠かさず出席していました。

秋山先生の授業の特徴は、「なるほど!」「分かった!」と感じることで、数学の「奥行き」すら理解できたような気持ちになりました。

ところが、自宅に帰ってから自力で解こうとすると全くできません……。授業であれほど明解になったはずなのに、です。

この謎の現象を何度も繰り返すうちに、「ある事」に気がつきました。

秋山先生の授業は、先生自身が「理解する」感動で溢れていて、その「氣」が伝わって、私まで理解できたように感じていたのでした。

本当に理解するためには、それだけの努力や積み重ねが必要なわけですが、最初に「難しい」と感じたり、先生のこと自体が嫌いになったりすると、やる氣がなくなってしまいます。

言い換えれば、秋山先生はやる氣を引き出す授業をしていたのです。

後に知りましたが、秋山先生ご自身は学生時代は決して成績優秀でなく、受験も失敗し、研究者になってからの人生も挫折続きであったとのこと。予備校での指導も、研究者としての資金調達だったそうです。

秋山先生は、高校で出会った数学教師から「数学の楽しさ」を知って、数学の研究者を志すようになったかとのこと。なるほど、だからこそ楽しさが伝わる授業になるのだなと、深く納得しました。


私は心身統一合氣道の指導者です。奥行きのあることをいかに平易に伝えるか、日々、研究と工夫を重ねています。

もっとも氣をつけていることは、私自身に「理解する」感動があること。

その感動が、「氣」を通じて相手に伝わるからです。道場の指導でも、外部講習でも、企業研修でも同じ姿勢で臨んでいます。

本当に身につけるには弛まぬ努力と積み重ねが必要ですが、その前提には「自分にもできる!」と信じられることが不可欠です。「自分にはできないかも」などと思っていたら、その通りできなくなってしまいます。

「あなたならできる!」と示せる人こそ、真の指導者なのでしょう。

人は「理解できる」と氣が出ます。「理解できない」と氣が滞ります。

したがって、自分が伝えたことによって相手がどのような氣を発しているか、逐一、確認することで相手の理解度が分かります。

相手が理解できてないときは、こちらの伝え方に改善の余地があり、相手が理解できるように研鑽を重ねることで指導技能は磨かれます。

「相手の知らないことを、相手の知っている言葉で伝える」

これは、心身統一合氣道の指導において、もっとも大事な教えの一つです。話して伝える上でも、文章で伝える上でも、同じことです。これを徹底することによって、伝える側の理解も確実に深まっていきます。

私自身も常に心がけています。

ただし、「分かりやすさ」は、良い面ばかりではありません。

頭で理解しただけで「分かった」と思うと、身につけるための努力や積み重ねをしなくなる人が少なくありません。「人を見て法を説け」ということですが、このテーマはまた別の機会に……。


「渋滞学」を提唱する東京大学先端科学技術研究センターの西成活裕教授と対談し、2019年に『コミュニケーションの原点は「氣」にあり! 』という本を出版しました

西成先生が何事においても平易な言葉で語られるのが印象的でした。

対談の中で西成先生は、学生の理解を深めるために「難解なテーマを中学生でも理解できるようにプレゼンテーションする」課題を出していると言われていました。

なるほど、テーマを本当に深く理解していなければ決してできないことで、中学生が知っている言葉で語ることが求められます。

心身統一合氣道の指導者でいえば、「子供クラス」「幼児クラス」で磨かれるのと同じでしょう。「子供だから簡単な内容を伝える」という発想は誤りであり、それではお子さんも指導者も磨かれません。

お子さんの分かる言葉を使うからこそ、「自分にもできる」と思えます。

「伝わる」ということは、本当に奥が深いと思います。

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2022/06/01

呼吸を真似る

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10年以上は前でしょうか。

ものまねタレントの清水ミチコさんが、ある雑誌の書評ページで、藤平光一先生の著書『氣の呼吸法』を紹介していました。

それがきっかけで、清水さんのライブ映像を見ることにしました。とても楽しいライブで、いちばん印象に残ったのが、「ものまねは、呼吸なんですよ」という清水さんのひと言でした。

日頃から、稽古で私は「息を吐く」ことを突き詰めていましたので、「声を発することは、息を吐くことである」のは理解していました。

ただ、誰かの発声を真似するという観点がなかったので、それ以来、どうしたらその人の声になるか、研究を重ねて来ました。

まずは、清水さんがよく真似る瀬戸内寂聴さんや矢野顕子さんから。最初はまったく上手くいきません。どうやら「似せよう」という意識自体が邪魔しているようです。

そこで、いったん声のことを忘れて、呼吸だけみるようにしました。声ではなく、呼吸を真似するようにしたのです。

すると、あら不思議。男性と女性で音域の違いがあるはずのに、だんだん似て来るのです。なるほど、呼吸が大事なようです。

呼吸には特徴や癖のようなものがあって、抑揚がある人、力強い人、力みがある人、虚脱がある人など、実にさまざまです。

それが正確に再現されると、人は「似ている」と感じるのでしょう。

これが分かって以来、呼吸を注意深く観察するようになりました。これまで、どれほどの数の人々の真似をしてきたか分かりません。


こんな好奇心だけでして来たことが、後々、役立つことになります。

一つは「氣の呼吸法」の指導。

指導していると、自然に息を吐くことができない人が多くいます。これまで数多くの呼吸の「癖」を観察してきた経験から、「何が苦しくさせているのか」が良く分かるようになりました。

一つは「氣合いや号令」の指導。氣合いや号令にはその人の呼吸の癖が直に表れます。

通常であれば、発声は感覚的な表現で指摘されることが多いので、指摘を受ける相手はなかなか理解できません。

これまでの経験から、その癖を私が真似してみせることによって、「このようになっていますよ」とお伝えできるようになりました。

自分がしていることを外側からみると、人は癖を自覚することができます。自覚さえできれば、氣合いや号令は自ずと良くなっていくのです。

どうしたら出来るかを具体的に示せるようになりました。

「学ぶ」とは「まねぶ(真似ぶ)」と言われますが、本当にそう思います。


心身統一合氣道は、役者さんも多く学んでいらっしゃいます。

「発声」とは「呼吸」であり、心の状態は呼吸に表れていることから、感情の表現と呼吸の状態は密接な関係にあります。

それぞれの感情のときには、それぞれの呼吸の状態がありますので、その呼吸になりさえすれば、声は自然に出てきます。感情と呼吸に乖離があると、聞く者にとって違和感になるわけです。

身体のどこにも力みがなく、全身に氣が通っているとき、呼吸は自在になります。すなわち、発声も自在であるいうことであり、ゆえに、役者の皆さんも関心を持つのでしょう。

私自身も、人前でお話しをする機会が多くありますので、話す内容以上に、どのような呼吸で伝えるかを大事にしています。呼吸の状態によって、伝わり方は大きく変わるからです。

心身統一合氣道の技においても、呼吸の状態が極めて重要です。技がうまくいくときには、うまくいくような呼吸になっているからです。

上級者にとっては、呼吸を真似る(盗む)ことも、大切な稽古なのです。

私は今も、日々楽しんで研究しています。

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2022/05/01

新鮮な感動

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日本画家の小倉遊亀先生は105歳という長寿を全うされました。藤平光一先生に同行し、鎌倉にあるご自宅を訪問したことがあります。

遊亀先生は、藤平光一先生の師匠の一人である小倉鉄樹先生の奥様で、藤平光一先生が鎌倉に参禅するたびにお世話になったそうです。

私が訪問したときには、かなりのご高齢で、藤平光一先生との再会を涙を流して喜んでいらっしゃいました。

遊亀先生は車椅子の生活でしたが、毎日、筆は持ち続けていました。その日は、バナナを題材に静物画をお描きになっていました。

ご家族の話によれば、筆の進みがゆっくりなので、バナナが次第に弱り、黄色から茶色、茶色から黒色に変化していくそうで、遊亀先生のお描きになるバナナも、日々、変化していきます。

最終的に、ご自身の画の黒いバナナをみてひと言。

「不味そう……」

画を完成させるだけならば、似た形の新しいバナナに取り替えれば良いわけですが、見たままに、感じたままに、真っさらな心の状態で描き続けるお姿に衝撃を覚えました。

「画を描くとは何か」を深く考えさせられました。


その後、藤平光一先生の下で私の内弟子修行が始まりました。

大きな壁が立ちはだかり、総てが上手くいかなくなることがありました。それも一度ではなく、何度もその状態に陥ります。

あるとき、ふと小倉遊亀先生のことを思い出しました。

「そうか。自分は目の前のことを何も見ていない、感じていないのだ」

いまこの瞬間に、心が向いていなかったのです。

藤平光一先生が大事なもの、素晴らしいものに触れるときは、毎回、初めてのような反応を示していました。

お供をしていて「前回も同じことがあったのに、お忘れになっているのでは」と思うことがありましたが、実はそうではなかったのです。

毎回、真っさらな状態で心を向けているからこそ、藤平光一先生は新鮮な感動が得られていたのでした。

稽古においても、同じ動作を繰り返すうちに、「なぞる」ことを始めます。

私が物事に行き詰まるときは、過去の体験がすでに心にあって、目の前のことに心が向いていないときに生じることに氣がつきました。

一回ごとに真っさらな状態で心を使うから身につきます。

「稽古とは何か」を深く考えさせられました。


身体は鍛えれば自在に使えるようになります。心も同じであり、鍛えれば自在に使えるようになります。

同じことをするにも、毎回、真っさらな状態で心を向けることを訓練すると、悪い意味での慣れが生じません。毎回、新しい発見があります。

反対に、日常でなぞることを繰り返すと、慢性的な慣れが生じて、何をしても感動や発見がなくなっていきます。

人に何かをしてもらうことに慣れてしまうと、当たり前になります。すると、感謝の気持ちも持てなくなっていきます。

これは、とても恐ろしいことです。

経営者団体の外部講習で質疑応答をしたとき、一人の経営者から、「自分は何をしても感動が得られないのです」という相談を受けました。事業は順調、家族も元気で、何一つ問題がないにも関わらず、です。

お顔は土気色をしていて、生気がまったくありませんでした。

「本日の講習で体験されていかがでしたか」とお尋ねすると、「今日は楽しかったです」と答えます。そこで「それでは思い切って、稽古を始めてみませんか」とお誘いしました。

初めてのことに全身全霊で取り組むことが、真っさらな状態で心を向ける訓練になったのでしょう。そのうちに昇級審査に合格して、子どものように喜んでいらしたのが印象的でした。


今でも様々な瞬間に、私は小倉遊亀先生の画のことを思い出します。

さあ、今日も新たな一日です。

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2022/04/01

受身の意味

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心身統一合氣道の稽古では、「受身(うけみ)」を大切にしています。

受身という言葉は、通常は「受身の態度」「受身に回る」のように使われて、「他から働きかけられる立場」といった受動的な意味、あるいは、「先に攻撃を受けて防ぐ立場になる」という守勢を意味しています。

稽古における「受身」は正反対で、能動的で、攻勢を意味しています。

受身とは「自分の身を護ること」であり、投げられた瞬間に態勢を整え、瞬時に次の動きができることを指します。投げられた瞬間は「終わり」ではなく、次の動作の「始まり」なのです。

したがって、心身統一合氣道の稽古においては、投げたから「勝ち」、投げられたから「負け」ではありません。

投げられたことで身体を強く打ち付けたり、痛めてしまったりしたら、次の動きができなくなったり、遅くなったりします。投げられた直後こそ、最大の「隙」になってしまうのです。

投げる側が統一体ならば、投げられる側も統一体でないといけません。相手が無理な投げ方をしたとしても、統一体で受身を取ることによって、力ずくの技は通用しなくなります。

だからこそ、「心身統一合氣道の五原則」に基づき相手を尊重し、導き投げることの意味を理解できるのです。

 心身統一合氣道の五原則

 一、氣が出ている
 二、相手の心を知る
 三、相手の氣を尊ぶ
 四、相手の立場に立つ
 五、率先窮行(そっせんきゅうこう)

今から20年くらい前に、私が定期的に指導していたアスリートの一人に、実績のあるプロボクサーがいました。

プレッシャーがかかる大事な試合でも力を発揮できるようになるために、「臍下の一点」や「氣の呼吸法」を学びに来ていました。

あるとき、私が受身の意味を説明して、実際に目の前でやってみせると、食い入るような目で見入っていました。

ボクシングでは受身を取る機会がないのではと思い、その理由を尋ねたところ、当時の私には予想もしない答えが返ってきました。

「いつもノックダウンできるのが理想ですが、本当に強い相手にはそうはいきません。ダウンを奪われるとき、相手のパンチのダメージもさることながら、倒れたときの衝撃が致命的なので、ダメージを受けない倒れ方を研究したいのです」

倒すことが目標の競技で、倒れ方を研究する視点がとても印象的でした。その後、この選手は無意識で出来るようになるまで受身を錬って、「確かなもの」を会得したようでした。

日常においても同じことです。

人生はいつも順調なわけではなく、失敗して、倒れてしまうときだってあります。そのとき「どのように倒れるか」が大事です。

受身は心の強さに直結します。

本当の強さとは、絶対に倒れないことでなく、たとえ倒れたとしても、瞬時に態勢を整えて次の行動ができることだからです。倒れたところが、人生の終わりではないのですから。

受身は、順境ではなく、逆境に直面したときにこそ真価を発揮します。

投げることだけでなく、受身も大事な稽古なのです。

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2022/03/01

目先にとらわれない

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私が内弟子修行していたときの話です。

最初の年は、稽古の時間よりも掃除の時間が圧倒的に長く、「掃除するために内弟子になったわけではないのに」と思っていました。

そんな心の状態が「氣」で伝わってしまったのでしょう。あるとき、藤平光一先生に呼び出されて、「毎日、掃除ばかりしているので不満そうだな」と尋ねられました。

私は「そんなことはありません!」と答えましたが、「嘘を言うな」と…。氣の先生に誤魔化しは通じません。私は「なぜ、こんなに掃除ばかりなのか分かりません」と打ち明けました。

藤平光一先生は「それは、目先のことしか見ていないからだ」と答え、内弟子修行においては、たとえ今は意味が分からなかったとしても、「できない」「意味ない」「関係ない」という言葉は使うな、と言いました。

さらに、「同じやるなら、楽しくやる工夫をしなさい」と言われたのです。

それならばと、私は日々、目標を決めて掃除することを始めました。

一つ一つの作業の時間をはかり、段取りを良くして目標時間内で終えよう。掃除の順番を変えて、いちばん能率の良い流れをみつけよう。掃除用具の置き場所を工夫することで、動きの無駄をなくそう。

そういった工夫の積み重ねによって、昨日より今日、今日より明日が、少しずつ良くなっていくことが感覚的に分かりました。嫌々取り組んでいたことで、どれだけ時間を無駄にしたかも自覚を持ちました。

あれから25年が経ち、現在の自分ならば良く分かります。

何事においても、この姿勢があるから成長します。心身統一合氣道の稽古に取り組む基本姿勢、「そのもの」だったのです。

内弟子時代、私は目先ばかりを見ていたので、「いったいこれが何の役に立つのか」と、毎日の掃除の時間が無意味に感じられました。

先のことまで見えていれば、掃除の意味を私は理解できたのかもしれません。しかし、若く未熟な頃は視野が狭く、目先にとらわれやすいので、あの状態では理解はできなかったことでしょう。

先生を信じて実践したからこそ得られたものでした。「先を生きている」からこそ、大事な方向を指し示していたのです。

人間は「目先のこと」にとらわれやすいものです。目先の成果や利益しか頭にないと、部分最適で物事を判断してしまいます。

特に、「人を育てる」ことは時間がかかるので、目先のことばかりになると、人を育てることを疎かにしたり、放棄したりします。

それは国や組織における衰退の表れであり、日本が抱える大きな問題の一つです。これを防ぐには、「目先のことにとらわれない」ための具体的な工夫や対策が必要です。

私にとって、それは「年配者の話を大事に聴く」ことなのです。

現代社会では年配者を「老害」と揶揄する風潮がありますが、とんでもないことです。長い時間をかけて一つ一つ工夫を積み重ねて来た方は、目先のことではなく「何が大事か」を語っています。

20歳のときに50歳の自分は想像できませんし、50歳のときに80歳の自分は想像できません。誰しも「今、この瞬間」を初めて経験しているのですから、本当のところは何も分かっていないはずです。

「一生」というスパンでみて、はじめて分かることがあります。だからこそ、私は90歳を迎える広岡達朗さんのお話を大事にしています。私だけの財産にせずに、『広岡達朗 人生の答え』という本にしました。

この本の企画で、「気持ちの切り替えが下手で、失敗を引きずってしまいます」という広岡さんへの質問がありました。

広岡さんはこのようにお答えになりました。

「それは気持ちの切り替えが下手なのではなく、目先のことに心が向いているのです。失敗したら落ち込むこともある。落ち込んだとしても、また先を見ればよいのです。人生、そこでおしまいではないのだから。」

ああ、なるほど。氣が滞ると目先のことしか見えなくなります。だから、失敗が「人生の終わり」のように感じて立ち直ることができない。先まで見えているから、その失敗は成功の元になるわけです。

気持ちは無理に切り替える必要などなく、まずは氣の滞りを解消して、未来に向けて氣が通えば、自然に心は前向きに変わっていきます。

目先ではなく、先を見るための「氣」の学びなのです。

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2022/02/01

臍下の一点とは何か

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このコラムは中学生の皆さんも読んでいると聞いていますので、奥行きのあることをどうしたら平易に伝えられるか、いつも工夫しています。

その観点では、今回の内容は「難易度が高い」「専門的」と感じるかもしれませんが、とても大事な内容なので整理しておきたいと思います。


「臍下の一点(せいかのいってん)」とは何か。

下腹の力の入らない場所、その無限小の点を「臍下の一点」と言います。「無限小」ということは「形がない」ということです。

心身統一合氣道では、「臍下の一点に心を静める」ことを訓練します。

実は、この訓練が、アスリートが自身の力を最大限に発揮する上で、あるいは、リーダーが物事に動じなくなる上でとても重要なのです。

「臍下丹田」という言葉をご存知の方が多いと思います。

「臍下(せいか)」とはおへその下を指す言葉です。丹田の「田」は、田んぼや油田・塩田など「何かを産出する土地」を意味し、面積を表しています。ゆえに、臍下丹田とは、通常は「下腹の辺り」を指します。

「臍下丹田に力を入れる」と表現されることが多いようです。

「臍下の一点」と「臍下丹田」は別物です。

「臍下の一点」は身体の力みの及ばない場所であり、心を静める場所です。力を入れる場所ではありません。

臍下の一点に心を静めると、外からの影響によって意識が振られなくなり、心身共に、土台が盤石に保たれるようになります。

通常、人間は「前後」「左右」に意識が振られています。

例えば、前に対して備えようとすると、意識が前に振られます。横に対して備えようとすると、今度は意識が横に振られます。

それらが同時に起こるとグラグラして土台を失ってしまうのです。これが「物事に動じる」ことで、力を発揮できなくなる最大の要因です。

臍下の一点には力が入りません。つまり、身体の力みが及ばない場所です。力みが生じる場所だと外からの力・動き・刺激の影響を受けますが、臍下の一点は受けません。

その一点に心を静めることによって意識が振られなくなり、常に盤石な土台を保ち、持っている力を発揮できるようになるのです。

身体が動くときも、臍下の一点が移動することを心がけると、常に「力を発揮できる」「瞬時に対応できる」状態を維持することができます。


日常生活でも意識が振られることがあります。

突発的な問題が生じると、「ああ!大変」とその問題に飛びつきます。つまり、目前のトラブルに心が動じてしまうのです。そんなときに限って別な問題も生じて、まったく動けなくなります。

臍下の一点があれば一つ一つのことに動じず、落ち着いて対処することができます。だからこそ、リーダーにとって必須の訓練なのです。

「臍下の一点」は「重心」と間違えられることがあります。

重心が高いと不安定になり、重心が低いと安定するのは、キャリーバッグの荷物の詰め方でも分かります。重い荷物を高い位置に入れると、キャリーバッグは倒れやすくなりますね。

このことと、混同してしまうのかもしれません。

「臍下の一点」と「重心」は別物です。

「重心」とは、物体の各部に働く重力の合力が作用するとみなされる点で、通常、立った状態の重心は骨盤の位置(身体の内側)にあります。

重心がスムーズに移動することによって、歩くことも、立ち上がることもできます。姿勢や動作によって重心は移動し、胸の辺りにある瞬間もあれば、身体の外側にある瞬間もあります。

重心について研究し、身体の動きを物理的に理解することは有益です。それによって身体をサポートする用具なども進化していきます。

他方で、運動する人が「重心を考えながら動く」のは現実的でありません。スポーツや格闘技で激しく動くときは重心も常に移動しています。そもそも重心は外側から観察して分かるものですから、尚さらです。

「臍下の一点」と「重心」の関係を説明すれば、「臍下の一点に心を静めて動くことで、スムーズに重心移動できる」ということです。

人間は「物」ではなく、心の状態が常に身体の状態に影響を与えているので、重心だけで人間の運動を語ることはできません。

「心が身体を動かす」のですから、スムーズに重心移動できない原因は、心の状態に拠るところも大きいのです。

臍下の一点があれば、あとは身体が無意識のうちに整えてくれます。だからこそ、激しい運動であっても活かせるのです。

ちなみに、様々な媒体で、体重が足裏の外側にかかるのを「外側重心」、つま先にかかるのを「つま先重心」と表現されるのを目にします。

実際には、足裏に身体の重心はありませんので、おそらく「足底圧」のことを述べたいのでしょう。

全身の体重は、足裏全体でバランス良く支えることが大切です。足底圧の分布を調べることで、バランスを知る一つの目安になります。

心身統一合氣道では、「つま先立ち」で基本姿勢を確認します。その目的は「足先に氣が通っているか確認すること」であって、つま先に体重を置くことではありません。

そもそも足裏のどこに体重をかけるかを常に意識していたら、自由に動くことはできません。

一人一人、骨格・筋肉は異なり、身体の状態も違うのですから、自然な立ち方は人それぞれです。足先に氣が通うように訓練すれば、あとは身体が無意識のうちに整えてくれます。

生き物の身体は、本当によく出来ていると思います。


通常、私が道場で指導をするとき、アスリートなどに指導をするとき、「重心」や「足底圧」という言葉を使う機会は、ほとんどありません。

「臍下の一点」さえ身につければ、意識する必要が全くないからです。

心身統一合氣道では、How to say(「良い」「悪い」を指摘する)ではなく、How to do(「どうしたらできるか」を示す)を大事にしています。

どういうメカニズムで機能しているかを調べるのが研究者の役目ならば、どうしたらできるかを具体的に示すのが私たちの役目です。

正しいことには「普遍性」と「再現性」があります。普遍性とは、誰が行ってもできるということ。再現性とは、同じ条件下であれば何度行ってもできるということ。これを基準にお伝えしています。

野球評論家の広岡達朗さんは、「臍下の一点」は総ての運動の基本であり、スポーツ選手やコーチの皆さんは学んでおくべきと言われます。

人間が本来持っている力を発揮できる、具体的な方法だからです。

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2022/01/07

人の影響は双方向

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昨年、東京大学先端科学技術研究センターの教授の西成活裕先生が、「イグ・ノーベル賞」を受賞されました。

イグ・ノーベル賞は、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に与えられる賞で、世界的に注目されています。

その多くが専門雑誌に掲載されるユニークで尖った研究で、1万人超の候補の中から狭き門を突破した「栄誉ある賞」なのです。


西成先生たちの研究チームでは、「歩きスマホをしているときに、なぜ歩行者同士がぶつかりそうになるのか」を調査しました。

横断歩道などで人がすれ違うとき、一部の人が歩きスマホをします。

スマホを見ている歩行者は、周囲への注意が散漫になっているので、人とぶつかりやすくなるのは分かります。

実際は、周囲の人も「歩きスマホしている人」のことを避けられず、ぶつかりやすくなるのです。

つまり、人がすれ違うときは、お互いに予期することによって、ぶつからないようになっていたのです。

このことから連想すると、「車」と「歩行者」の関係においても、運転する人だけが氣をつけていれば良いわけではなさそうです。スマホ歩きをしながら、「きっと車が避けてくれる」という考えでは成り立ちません。

研究結果によれば、一部の人の歩きスマホが歩行者全体の動きに影響するそうです。歩行者一人の注意が散漫になることで、全体が停滞するので、「自分一人くらいは大丈夫」という考えでも成り立ちません。

西成先生は「人間は無意識のうちに見ず知らずの人とも交流して、阿吽の呼吸で行動しているのです」と言われます。

なるほど、それこそ「氣が通う」ことであり、心身統一合氣道の技に通じます。氣が通っているから、相手を導き投げることができます。

心身統一合氣道を熱心に稽古なさっている西成先生には、日頃の技の稽古がこのように見えていたのでしょう。


考えてみれば、「人との関わり」は、総て同じようにも思えます。

「教える人」と「教わる人」においても、一方だけが影響を与えるのではなくて、双方が影響を与え合っています。

「教える人」も、「教わる人」から常に何かを得て変化し続けています。昔から「教えることは学ぶこと」といわれるのも良く分かります。

学校のように先生と生徒が向かい合って学ぶ価値は、お互いが意欲を持って臨むことで影響し合って、大きな効果が得られるところにあるのでしょう。だからこそ、「共に学ぶ姿勢」が大事なのです。


学生時代、私は合氣道部に所属していました。

理系大学の学生(特に新入生)は、コミュニケーションが得意でない人が多いため、何かを言われたときに「反応が薄い」ことがあります。

合氣道部の先輩で、現在、長岡技術科学大学の教授の三浦友史先輩は、事あるごとに「師範がもっと教えたくなってしまうように、ワクワクした感じで稽古しよう!」と新入部員に声をかけていました。

当時、私は「何のために」を理解していませんでしたが、先輩はこの頃から、「学習とは相互作用である」ことを理解していたのでしょう。

お寺の鐘が立派でも、橦木(鐘つき棒)が粗末では良い音は出ません。「反応が薄い」ということは、「得られるものも薄い」ということです。

食事を作ってもらったときもそうですし、何かお世話になったときも同じです。反応が薄いと双方にとってプラスになりません。

積極的に求めることによって、相手の持っている力を引き出せます。

コミュニケーションの本質だな、と思います。


西成先生のお話では、受賞後の取材でこんな質問があったそうです。

 「すごい研究なのは分かりましたが…、オチはどこにあるのですか」

西成先生も笑わせるための研究しているわけではないので、「オチ」などあるはずがありません。「イグノーベル賞」が世の中に正しく理解されるのには、少し時間がかかりそうです。

研究内容に関心のある方は、東京大学のサイトをご覧ください。

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2021/12/01

心から悲しむ

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心身統一合氣道の技の稽古で、最も重要なのは「土台づくり」です。

土台となる姿勢が乱れていては、相手を導き投げることはできません。相手を投げるより前に、まず自分の土台を整えることです。

臍下の一点に心を静めると、心の状態も身体の状態も盤石になります。すると、外からの「力」や「刺激」に対して振り回されなくなります。

一つ一つの物事に、正々堂々と正面から向かい合うことができます。

目の前のことから上手に回避しようとすると、かえって土台を失い、結果的にひどく振り回されることになります。そういう経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

動じない人間になるため、そして、常に冷静な判断ができるために、多くのリーダーが心身統一合氣道で「土台づくり」を学んでいます。

私自身も、日々、稽古を通じて磨いています。

今から10年くらい前の話です。私は両親が年を経てからの子供だったので、30代で両親を見送ることになりました。

父が亡くなった際は本当に悲しく、逝去して翌々日の講習会の指導では立っているのもやっとで、何とか役割を全うしました。さらに、ラスベガスで大きな講習会の指導がありましたが、成功裡に終わりました。

そうこうするうちに悲しみを乗り越え、日常を取り戻していきました。

その二年後に母が亡くなった際は、そこまで悲しみを感じることはなく、逝去した翌日から、いつも通りに指導の現場に立っていました。父が逝去した経験があるので、心が強くなったくらいに考えていました。

特に、気性の激しかった母とは、何かと対立することも多かったので、亡くなったことで「解放された」気持ちもありました。だから、「それほどの悲しみは感じないだろう」と捉えていたのです。


そんな中で、不調は突然訪れました。

突発性難聴、目まい、偏頭痛、胃腸炎、肋間神経痛、喘息など、一つの不調が表れ、それが収まっては次の不調が表れます。指導や講演には穴をあけられないので、氣力だけでやり遂げていました。

そんな不調が半年ほど続きました。

ある晩、どうしても眠りにつくことが出来ず、思い切って起き上がって、そのまま朝まで「氣の呼吸法」をすることにしました。すると、呼吸が静まるほど、忘れていた母との思い出が頭に浮かびます。

「いろいろあった母だけど、大事に育てられたのだな…」

自然に涙が流れてきて、「ああ、自分は本当は悲しかったのだな」と、はじめて母の死を心から悲しむことができました。無意識のうちに私は「悲しくない」と自分を抑圧していたのでした。

その後、あれだけ続いた不調は霧が晴れて散るようになくなりました。

自分を抑圧すると土台を失ってしまうので、心と身体の状態は乱れる。そんなことは日頃の稽古で十分に理解しているはずなのに、母の死に直面して、私は自覚なくそれをやってしまったのです。

土台があるからこそ、向かい合うことができるのです。


一昨日、私にとって大事な方が急逝しました。

心身統一合氣道のよき理解者であり、とてもお世話になりました。数日前まであれだけ元気に活動していたのに、突然の別れでした。お若いのに残念で仕方ありませんが、天命を全うされたのだと思います。

大事な方が亡くなったのだから、いまは心から悲しみたいと思います。そして、前に進んでいきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

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