カテゴリー「04-藤平信一メールマガジン」の169件の記事

「藤平信一メールマガジン」に掲載された記事です。

2019/03/01

意識する、ということ

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自分が自然にしていること、出来ていることを言葉にすることで、パフォーマンスが悪くなることがあります。 それまで無意識で出来ていたことを「意識」することによって、同じように出来なくなってしまうのです。

私はこれを7年前に経験しました。次世代の指導者を集中的に育成するため、3年間ほど特別な機会を設け、それぞれの指導者と頻繁に接していたときのことです。

「氣」や「心」のように、本当に大事なものには「形」がありません。 その大事なものを伝えるために、私自身で言葉になっていないこと、感覚的に会得していること、自分が無意識に出来ていることなどを、一つずつ整理して言葉にしていく必要がありました。

「変化」は間もなく表れました。

言葉にしたことによって、それまでと同じようには出来なくなっていたのです。「無意識」の領域から「意識」の領域に持ち出してしまったのでしょう。

すっかり不調に陥ってしまいました。それでも育成は続けなければいけませんので、ひどい不調に耐えながら、これからの指導者を育てる「基礎」を作り上げました。このときの苦しさは経験したことのないものでした。

さいわいなことに、言葉にしたことをあらためて訓練することにより、私の不調は解消され、また元に戻っていきました。おそらく「意識」の領域から「無意識」の領域に戻ったのでしょう。

こういったことは、日々の稽古でも起きています。

例えば、「バランスを取る」という意識がそうです。「自然な姿勢には自然な安定がある」のですから、本来であれば、バランスは意識して「取る」のではなく、自然に「取れる」はずです。 しかし、意識してバランスを取ってしまうと逆に乱してしまうのです。

本当にバランスが取れているときは、特別な感覚はないものです。もし、自分が「バランスを取っている」と意識しているとしたら、それは本物ではありません。実際のところ、バランスが乱れているから意識するのです。

日頃から、つま先立ちをして足先まで氣が通うように訓練しておくと、それが習慣になって、いつの間にか自然にバランスが取れています。氣がついたら「よろめかなくなっていた」「転ばなくなっていた」 「疲れなくなっていた」と感じるのであれば本物です。

これは姿勢の話だけではなく、物事におけるバランス感覚も同じです。バランス感覚が良い人は、意識してバランスを取ってはいないのです。極めて自然なことなので、バランスを取っている自覚もありません。

トップアスリートを指導していると、「なぜそれを出来るのか」をアスリート自身がまったく言葉に出来ないことがあります。

私自身が経験から学んだ通り、自然に出来ていることを意識させると、パフォーマンスはかえって悪くなってしまいます。そのため、指導の際には細心の注意を払い、「無意識」の領域のものは「無意識」のまま伝わるような工夫をしています。

私たちは、まずは「無意識」でしていることを「意識」して訓練します。しかし、これだけでは「身についた」ことにはなりません。「意識」して出来ることを「無意識」で出来るように訓練が必要なのです。

「稽古」とは、私はこのプロセスを繰り返すことだと捉えています。

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2019/02/01

角度を変えてみる

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私は子どもの頃、12年ほどピアノに触れる機会がありました。 藤平光一先生のお弟子さんに女性ピアニストがいらして、直に教えて頂いていました。私などには勿体ない先生でした。

私は不良生徒でしたが、そのときに教わったことが今になってようやく理解出来るようになってきました。

例えば「心を静める」こと。レッスンの前にピアノを前に座り、心を静めることを徹底されます。「心が身体を動かす」のですから、心の状態は音にも影響していて、心の状態が乱れるとピアノの音も乱れてしまいます。

心が静まっていないと、自分の奏でる音を聴くことも出来ません。

心が静まるのを確認してからはじめて、鍵盤に触れることが許されます。この訓練のお陰で、何かを行うときに心の状態をみる習慣が出来ました。それは心身統一合氣道の稽古に直結していました。

例えば「氣を切らない」こと。一つの音の終わりは、次の音の始まりです。しかし、一音一音で氣が切れると、旋律が乱れてしまうのです。音のない瞬間も氣が切れることはなく、それも音楽の一部です。

「間(ま)」についても、この頃に感覚が磨かれました。

私は性格的に氣を切りやすかったようで、その度に注意を受けました このお陰で、物事の終わりに氣を切らない習慣が出来ました。「一つの技の終わりは次の技の始まり」という感覚もそこで得ました。

例えば「無限小に静まる」こと。 一つの音は、ひとたび発せられると、無限小に静まっていきます。ひとことで言えば「静止状態」に帰するのです。この静止がないと、落ち着きがなく上擦った演奏になります。

これは当時はまったく理解出来ず、今になってようやく分かって来ました。

一つの動作の後が静止することで、次の動作に繋がっています。「静」から「動」が生まれ、「動」から「静」に戻っていく。技における「静動一致」の理解のルーツは、おそらくここにあったのだと思います。

「合氣道の後継者を育成するのに、なぜピアノを学ばせるのですか」 と藤平光一先生に質問した人がいたそうです。当然の疑問かもしれません。

正面からみているだけでは分からないことも、角度を変えてみることで、はじめて分かることがあります。

これは、異なるものを自分なりに混ぜる姿勢では絶対に得られません。異なるものに共通する土台を理解する姿勢だからこそ得られます

藤平光一先生は、私にそれをさせたかったのでしょう。また、音楽における私の先生はその目的に最適の方であったのでしょう。

ピアノには、もう20年近く触れていません。とてもではないですが、どなたかに聴いて頂く状態にはありません。それでも最近では、周囲に誰もいないときに本部宿泊研修施設にあるグランドピアノに触れています。

今では、音を聴いて自分の心の状態がよく分かります。

以下は余談です。

そんな訳で、日頃からピアノ楽曲をよく聴きます。

今であれば、20年前に録音された横山幸雄さんの超絶技巧練習曲集(リスト)を、あらためて聴き込んでいます。S.139第8番「狩り」は何度聴いたか分かりません。

ポリーニ・コレクション(ショパン)もそうです。マウリツィオ・ポリーニによるエチュード(練習曲)やバラードを良く聴きます。バラード第4番Op.52は特にそうです。

クリスティアン・ツィマーマン演奏によるピアノ協奏曲(ショパン)も好んで聴きます。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮による1978年・1979年録音版です。

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2019/01/08

洗心の行

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「洗心の行」は寒中で水をかぶる行(ぎょう)です。

元々は先代の藤平光一宗主が、新しい一年を迎えるタイミングで、 生家である代官屋敷の堀に入っていたのが始まりです。 それをみていた弟子が一人、また一人と「自分もやりたい」と増え、 堀に入りきらなくなって、場所を鬼怒川に変えることになりました。

当時、最も多い年で400名を越える皆さんが鬼怒川に入りました。 壮観な画のためか、毎年、テレビのニュースにもなっていました。 現在では、鬼怒川の環境が洗心の行に適さなくなったことから、 栃木にある本部宿泊研修施設内にある「洗心の行場」で行っています。

鬼怒川時代をご存知の方は「川の方が寒かった」と言われますが、 両方の経験があり、現在も行を続けている私の実感では、 どちらも変わりはありません。

私が初めて洗心の行に参加したのは7歳のときでした。 当時はまだ親子の関係であった藤平光一宗主に手を引かれて、 「今日はお父さんと良いところに行くんだよ」と連れて行かれたのが、 氷点下5度の鬼怒川でした...。

やりたくないと駄々をこねている間は寒くて仕方なかったものが、 やるしかないと心を決めた瞬間に感じ方が変わります。 環境は何一つ変わらないのに、耐えられない寒さでなくなるのです。 風邪を引くこともまったくありませんでした。とても不思議な体験でした。

今にして思えば、まさに「心が身体を動かす」であり、心の状態が身体の状態にどれだけ影響を与えているかを学んだのでしょう。このときの体験が、私の土台を作ったのは間違いありません。 私事ですが、 こうして始まった私の洗心の行は来年で40回目を迎えます。

洗心の行は単なる「やせ我慢」ではありません。洗心の行の目的は二つあります。

一つは「心を決める」こと。 ひとたび心を決めれば、困難に見えることも乗り越えられる。 それを根性論ではなく、身体で体得することです。

心が決まらないと寒くて一瞬たりともいられませんが、 心が決まれば、寒さを正面から受け入れられるようになります。 それを理解したら、日常生活での心の使い方に活かすことです。

もう一つは「過去の良いことも悪いことも水に流す」こと。 人間は何事にもとらわれやすいもの。 ひとたび心がとらわれて、心の停止状態になってしまえば、 目の前のことに心をまったく使えなくなります。

実際には、悪いことにとらわれる以上に、過去の成功や実績など、 良いことにとらわれる方が多いものです。 だからこそ、悪いことだけでなく、良いことも水に流すのです。 新たな氣持ちで新年を迎えるということです。

今年も氷点下のなか、100名以上の皆さんと洗心の行を全うしました(定員が100名です)。 やるまでは「辛くて仕方なかった」という人でも、やり遂げてみると、 「また来年やりたい」となるのが面白いところです。

寒中に水をかぶるからといって、人間的に偉いわけではありません。 洗心の行で会得したことを、今度は日常に活かすことが大切です。

「日々、行う」ことこそ「行」なのですから。

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2018/09/03

心を決める

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藤平光一宗主は私の師匠であり、父でもあります。

ひとたび「師匠と弟子」という関係になると、「親と子」ではなくなり、 「親父」や「お父さん」と呼ぶことは全くなくなります。 振り返ってみると、親子関係であったことを懐かしくさえ感じます。

親子時代のことで、ふと思い出したことがあります。

父は「心を決める」ということを大事にしていました。 心を決めずに物事を始めてしまうと、そこには必ず迷いが生じます。 一つのことをやり遂げるには、まずは心を決めることが不可欠です。

小学校低学年まで、私はいわゆる「虚弱児」でした。 原因不明の熱によって、学校を3ヶ月間も休んだこともありました。 そんな私に、父は、毎朝風呂場で水をかぶるように勧めたのです。 「夏の暑い日から始めて、少なくとも一年間は続けなさい」と。

当時、小学4年生であった私は、こういわれて始めることにしました。 始めのうちは真夏の水浴びなので、氣持ちよくかぶっていましたが、 秋頃から徐々に状況が変わっていきます。 冬になると、朝を迎えるのが憂鬱で仕方がなくなりました。

そんな私に、父は「心を決める」という話をしました。 「水をかぶる」「水をかぶらない」という選択肢が自分にあると、 そこに迷いが生じて辛くなってしまう。 「水をかぶる」と心を決めて行いなさい、というのです。

はじめは、「根性論」をいわれているように感じていましたが、 なるほど「何とかしてさぼれないか」と迷いながら水をかぶると、 服を脱ぐだけで寒氣がして、水もとてつもなく冷たく感じます。

ところが、「水をかぶらない」という選択肢(可能性)を捨てて、 水をかぶる前提で行うと、思うほど辛くありません。 前の日の晩から、すでに心が決まっている感じがあるのです。

その違いを身体で会得した私は、自発的に取り組むようになり、 「心を決める」ということを徐々に覚えていったのでした。

そうこうしているうち、一年が経って、また夏を迎えました。 その頃には「心を決める」ことがかなり習慣づいていました。 いきなり止めてしまうのも、何だか寂しいような感じもあって、 結局、中学に進学するまでさらに二年続けることにしました。

このときの体験が「心を決める」という私の基本姿勢をつくることになりました。 私の場合は「水をかぶる」という方法が最も適していたと思いますが、 実際のところは他のことでも良いのでしょう。 「心を決める」習慣をつけることが目的なのですから。

「心を決める」ことは、これから社会に出る皆さんには特に重要です。

社会人として一つの選択肢を選ぶ以上は、いったん他の選択肢は捨て、 心を決めて臨むことです。 しかし、他の選択肢を捨てられない人が多いのです。

すると、苦しいことに直面し「自分はこんなことをしていて良いのか」 「自分にはもっと他に道があるのではないか」と迷い始めます。 この迷いが生じると、もはや困難を乗り越えることは出来ません。

すべきことを総てした上で、自分が歩む道ではないと確信するならば、 そのときは別の道を選べば良いだけです。 それもまた「心を決める」ことだからです。

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2018/08/01

静止と停止

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藤平信一です。

相手が力いっぱい自分の手首をにぎって、押さえるとしましょう。 そうすると、持たれたところ(=手首)に意識を取られてしまい、持たれたところから動こうとして、動けなくなってしまいます。

しかし、冷静になってみれば、持たれているのは手首だけで、 手首以外は自由に動けるはずです。 それにも関わらず、全身が動けなくなってしまうわけです。

これは、心が一つのことにとらわれてしまった結果、 他のことに心をまったく使えなくなる最たる例です。 藤平光一宗主は、これを心の「停止」状態と定義しました。

この停止状態は日常生活でも頻繁に生じています。 トラブルなど自分が望まない出来事が生じると、それにとらわれ、 他のことにまったく心が向かなくなります。

本来すべきことに心を使えなくなってしまうのです。 誰かに悪口を言われると、一日中それが氣になってしまって、 何も手がつかなくなるという人もいます。 ひとたび心が停止すると、自由に使えなくなるということです。

私たちは、一日のなかでも何度もこの停止状態に陥っています。 しかし、たいていは自覚がないので全く氣づいていません。

「停止」と対になる状態が「静止」です。 静止とは心が静まっていて、一つのことにとらわれることなく、 いつでも自由に心を使える状態を指します。

厄介なのは、一見すると「停止」と「静止」はよく似ているので、 はじめはほとんど見分けがつかないことです。 そこで、道場での技の稽古でその違いを感じることが重要なのです。

冒頭の「手首をつかむ」例に戻りましょう。

臍下の一点に心を静めて、相手に力いっぱい手首を持たせます。すると、今度は手首に意識を取られることがなくなっています。

手首以外は自由に動けることが感覚的にも分かるので、 動けるところから動けば、相手を導き投げることが出来ます。

日常でいえば、仮に生じているトラブルはすぐに解決しなくても、 他にも出来ることはたくさんある、ということです。 出来ることから行えば、物事を着実に進めていくことが出来ます。トラブルに心が奪われてしまうと何も手につかなくなります。

心が静まった状態で物事に臨む「準備」「備え」が最も重要であり、 それによって、一つのことに心がとらわれなくなります。 私も日々、「静止と停止」をテーマに自分の心の状態をみています。

上記の例では、心が乱れていると相手に「持たれる」ことになり、 心が静まっていると相手に「持たせる」という感覚が生じます。 「持たれる」「持たせる」は一字違いでも結果は天と地ほど違います。

人前に出るときの「見る」「見られる」も同じことです。

臍下の一点に心を静めることは、心を停止させない具体的方法です。

ご一緒に日常生活で訓練して参りましょう。

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2018/06/01

何が問題か

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藤平信一です。

今回はビジネスのフィールドの話です。

いま心身統一合氣道の学びは、日本を代表する大きな企業の幹部育成の研修で、本格的に取り入れられています。バブル景氣の頃は、めずらしさで取り入れる会社が多かったようですが、現在では、明確な目的を持ち、具体的な成果を求めて導入されています。

「形のあるもの」ではなく、「形のないもの」にフォーカスすることが、激動の時代を乗り越えていくための確かな力になっているようです。

ある「問題」が生じたとしましょう。すべき努力をしているにも関わらず、問題が解決しないとしましょう。最大の原因はいったい何でしょうか。

多くの人は、「知識の不足」「スキルの不足」「経験の不足」など、自分に不足しているものを原因として挙げるかもしれません。それらは問題が解決しない一つの要素ではありますが、最大の原因は「何が問題か」を正しく理解していないことにあります。

「何が問題か」を間違えると、どれだけ努力しても解決はしません。そして、真の問題は、データなど「形のあるもの」にあるのではなく、氣のように「形のないもの」にあることが多いのです。

例えば、こちらが伝えたいことが正しく伝わらないとしましょう。勿論、それは「伝える内容」や「伝え方」にも課題があるのですが、最大の原因は「氣が通っていないこと」にあります。

この場合、「氣が通う=信頼関係の構築」と置き換えると分かりやすいかもしれません。信頼関係が十分に構築されていなかったり、ヒビがあったりすると、「氣が通っていない状態」になっています。その状態でいくら相手に伝えようとしても、正しく伝わりません。

氣が通っている状態、すなわち信頼関係が構築されているときは、伝えたい内容は正しく伝わっていきます。つまり、「何を伝えよう」「どのように伝えよう」という以前に、どうしたら相手と氣が通うかに取り組むことが重要なのです。

「伝える内容」や「伝えたいという思い」で精一杯になっていると、氣が通っているかをみることなく、そのまま突き進んでしまいます。その結果、うまくいかず、「伝える内容が悪かったのではないか」「伝え方が悪かったのではないか」と振り返るわけです。

しかし、それは真の問題ではありません。「何が問題か」を捉え間違っているので問題が解決しないのです。そして、同じことを形を変えて何度でも繰り返すことになります。

まずは「氣が通う」「氣が滞る」というフレームワークを持つこと。次に、それらを正しく感じ取れるように具体的な訓練をすることです。臍下の一点に心を静めると「氣が通う状態」「氣が滞る状態」、どちらも正しくキャッチ出来るようになります。

「伝えてはいけないときに相手に伝えてしまう」「伝えなければいけないときに相手に伝えられない」といったタイミングに関する判断ミスも少なくなります。特に、コミュニケーション、ネゴシエーションには不可欠です。

これは心身統一合氣道の稽古そのものであり、心が静まっているから、相手の氣配をキャッチして、適切なタイミングで動けるのと同じです。どのタイミングで動くかと考えた瞬間に分からなくなってしまいます。

禅の言葉に「そつ啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります(そつ=口+卒)。「そつ」とは、卵の中の雛が内側から殻をつつく音。「啄」とは、卵の変化に氣がついた親鳥が外側から殻をつつく音。

同時に行われることで、雛はスムーズに殻を破ることが出来ます。早くても駄目、遅くても駄目。どちらも上手くいきません。相手の状態をよくみて、「その時」を逃さないことを説いた言葉です。

それには「氣が通っている」という土台が必要。多くの人を導く立場にあるリーダーには必須の訓練であり、そのため、多くの会社の幹部研修で取り入れられています。

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2018/04/02

固まらない

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藤平信一です。

大学の一般教養の授業で学生と関わるようになって20年になります。10年前、もしくは20年前の学生と、現在の学生を比べてみると、確かに、感じ方・捉え方・考え方には変化があるように感じます。

ただ、良く言われる「昔の学生と比べて今の学生は」などといった、今の学生だけが悪いという考えを私は持っていません。昔の学生が今の学生より優れていたこともあり、その逆もあります。

大事なことは、性質の変化を正しく認識することだと考えています。それによって適切に導いていくことが出来ます。

この何年かの変化として、「自分の想定しないこと」が起こったとき、固まってしまう学生が増えているように感じます。

特に、注意を受けたり、指摘を受けたり、叱責を受けたりすると、固まってしまい何も反応出来なくなってしまいます。自分に非があるのが分かっていても、謝罪の言葉も出て来ません。

多くの場合、どう答えて良いか分からないために固まってしまい、それが相手には「煮え切らない態度」「反抗的な態度」に映るので、相手をイライラさせて状況を悪化させています。

固まる原因は様々ですが、病氣や過去のトラウマ等でない限りは、想定外のことに接して「氣」が滞ることが原因です。そして、それは日々の稽古によって解決することが出来ます。

心身統一合氣道の稽古で例えれば、相手が突然かかって来たとき、どう動けば良いかを考えて、固まってしまうのと同じことです。今まさに、かかって来る相手に「待った!」は通用しません。何らかの対応をしなければ身を守ることは出来ません。

相手がこうかかって来たら、こう投げようという想定があると、相手が自分の想定外の動きをすると全く反応出来なくなります。

また、相手がかかって来たとき、どの技で投げようかと考えても、全く反応が出来なくなります。

どちらも「氣」が滞ってしまうのです。

心を静め、視野を広く持ち、相手の状態を感じ取ることで、氣を滞らせることなく適切に動くことが出来ます。

何かあるたびに固まってしまうお子さんであっても、稽古によって訓練することが出来ます。非常時にお子さんが自分の身を守る上でも、最も重要なことです。

話をコミュニケーションに戻しましょう。

想定外のことが生じると固まってしまう原因の一つには、「自分がどのように対応したら良いのか」を考えることにあります。どのように対応するのが正解か、を頭で考え始めてしまうのです。その瞬間に「氣」が滞ります。

「怒られたくない」「恥をかきたくない」という思いが強すぎると、固まる傾向が強くなるようです。

これは考え方を変えるだけでは解決せず、実際に身体を使って、「氣」が滞らないように訓練することが不可欠です。

道場の稽古で固まらないことを会得したら、今度は日常で、コミュニケーションにおいて同じことを訓練します。

相手が何かアクションを起こしているのに、無反応な人がいますが、この習慣はいざというときに固まってしまうことに繋がっています。

レスポンスをしない人、自分のタイミングでしかレスポンスしない人、「はい」という返事しかしない人などは要注意です。

「固まらない」ことは、私たちの稽古における重要なテーマの一つです。是非、日々の稽古で磨いて頂きたいと思います。

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2018/03/01

小さな滞りが大きな滞りを生む

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藤平信一です。

内弟子時代、掃除に明け暮れたことが習慣になったようで、私は今でもよく掃除をします。

ホコリというものは面白いもので、小まめに掃除しているとひどくは汚れません。計画的に掃除していれば、大掃除をする必要もありません。

しかし、大した汚れではないと少しのホコリを放置してしまうと、それがさらに他の汚れを吸着し、みるみるうちに汚れていきます。

汚れきってしまった状態から掃除するのは、氣力と体力を必要とします。ポイントは、ちょっとの汚れのときに掃除をすることです。

実はこれ、「氣」の滞りにおいても同じことが言えます。始めにちょっとした「氣」の滞りが生じ、それを放置することで、その後の出来事に繋がって、大きな滞りになっていくのです。
以前にこんなことがありました。

日々、仕事をしているうちに、だんだんやる氣がなくなって来て、完全に氣が滞ってしまった人がいました。いよいよどうしようもなくなって私に相談したようです。

本人に原因を尋ねても、思い当たることが全くないようです。2ヶ月くらい前から調子を落としているとのこと。その頃にどんなことがあったか、詳細に思い出して頂くことにしました。しばらく時間をかけて、本人が「あっ!」と思い出しました。

信頼する後輩が自分の悪口を言っていると、ひとづてに聞き、事実か確認することも出来ずに数日間、悶々としていた時期があったそうです。その後、仕事が忙しくなって、そのことを忘れていたのでした。

話をよく聞くうちに、私はこの出来事こそ現在の不調のきっかけではないかと感じました。最初はちょっとした氣の滞りでも、その状態のまま先に進むと、そこでも新たな氣の滞りを生じさせるからです。

それはちょうど、わずかなホコリが他のホコリを吸着していき、加速度的に汚れていくのに良く似ています。大切なのは、ちょっとしたホコリのうちに取り除くことです。

私がこう指摘すると、この方はすぐに後輩と話をする機会を設け、行き違いによる誤解であることが判明しました。そして、たったこれだけのことで不調から立ち直ったのでした。

仮に、悪口が「誤解」ではなく「事実」であったとしても、相手に直接確認さえ出来れば、相手の真意を知ることで、氣の滞りが解消するのは良くあることです。

しかし、これは決して簡単なことではありません。理由は二つあります。一つは、氣が滞っているとき、滞っている自覚がないこと。もう一つは、氣の滞りの原因の大半は、実は小さなことだからです。

はじめはちょっとした出来事がきっかけで、しかもそれを忘れてしまうので、原因不明の不調に陥りやすいのです。これをどう解決するかは、私たちの人生にとっての大きなテーマで、私自身も日々取り組んでいます。

考えてみれば、世の中の「滞り」には、必ず元となっているものがあります。高速道路の自然渋滞も、始めは一台の車のブレーキから始まります。その滞りが次の車のブレーキに繋がり、渋滞になっていきます。

3月21日(水)春分の日に開催する「Kiフォーラム2018
」では、 世の中の「滞り」を研究なさっている 東京大学先端科学技術研究センターの西成活裕教授をお迎えしてトークセッションいたします。
定員となりましたので、現在は「キャンセル待ち」のみ承っています(3/10現在)。

西成先生はいま熱心に心身統一合氣道を稽古なさっています。西成先生と私のWeb特別対談も公開されていますので、ぜひこちらもご覧下さい。

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2018/02/01

向かい合う

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藤平信一です。

心身統一合氣道の技の稽古において「ぶつかる」という感覚があります。

技において「相手をこう投げよう」「相手をこう動かそう」として、自分のなかに結論を持った状態で相手と接すると生じる感覚です。ひとたび、これが生じると、相手を導き投げることが出来ません。

そのため、まずは心を静め、相手の状態を理解することを訓練します。そうすると、今度はこの「ぶつかる」という感覚は生じることなく、スムーズに相手を導き投げることが出来るのです。

稽古においてこの感覚を会得することで、日頃のコミュニケーションで、いかにぶつかっているかと氣づく人が多いようです。

かく言う私も、かつてその一人でした。

現在は育成の仕組みを変え、内弟子を採る機会は全くなくなりましたが、当時は常に数名を育成していました。

学びたくて来ているはずなのに、始めは学ぶ姿勢が整っていないので、内弟子たちは、教えたことをなかなか実践出来ません。辛抱強くとは思うものの、イライラさせられる毎日が続いていました。

そんなある日、藤平光一宗主が私のところに来て、こう声を掛けました。

「総ての問題は、向かい合うことで解決に向かうものだ」

言葉としての意味は理解出来るのですが、なぜそのように言われたのか私は真意を理解出来ずにいました。

それは直後の稽古での「氣づき」でした。

片手取り転換呼吸投げを指導していたとき、生徒さんのお一人が、相手に片手を持たせる時点でぶつかって上手く出来ませんでした。「転換する」ことを前提に片手を出していたためです。

私は「始めから転換するという結論を持って相手に持たせるのではなく、相手が何をしたいか理解するために持たせて下さい」と指導しました。生徒さんはこの助言でスッと出来るようになりました。

そう言いながら私はハッとしました。

自分が指導するときは「こうあるべき」という結論があって、その上で内弟子の話を聞いていました。それでは技と同じで、ぶつかってしまい相手を導くことは出来ない。

自分は「向かい合う」ことをしていなかったのだ、と氣づきました。毎日顔を合わせているのに、自分は向かい合っていなかったのだ、と。向かい合うことは、相手を理解する上での基本だったのです。

思い返せば、日常における「会話」も、仕事における「交渉」も、私はいつも自分のなかに結論を持って臨んでいました。それでは、相手とぶつかってしまい、上手くいくはずがありません。

これ以来、「向かい合う」ことが私の最大のテーマの一つとなりました。まずは、内弟子の教育から、向かい合うことを始めることにしました。

今だに悪い癖が出そうになることがありますが、技の稽古と同じく、臍下の一点に心を静めて人と接し、「向かい合う」ようになってからは、それまで上手く行かないことが驚くほどスムーズになりました。

教育においては「寄り添う」ことが大切だと言われています。これは決して簡単なことではありません。向かい合うという基本があって、はじめて寄り添うことが出来るからです。

藤平光一宗主は、心身統一合氣道を「生活の中の合氣道」と説きました。道場の稽古で会得したことを、生活、すなわち生きることに活かすこと、それが稽古の目的であることを教えました。

ご一緒に稽古に励んで参りましょう。

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2018/01/10

滞りを解消する

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物事を成就するには心で強く思うことが不可欠です。しかし実際には、強い思いで物事にあたっているはずなのに、ボタンの掛け違いのように物事が上手く運ばなくなることがあります。

「こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ上手くいかないのだろう」そう疑問に思う人は少なくありません。

先日、新幹線の車中でのこと。恐そうな上司と一生懸命な部下が通路を挟んだ隣の席にいました。どうやら頼まれていたものと違う弁当を買ってきたようで、部下はミスを何とか挽回すべく上司の世話をしています。

そんな中、上司がその弁当でYシャツを汚してしまい、「ああもう!こんなもの買ってくるからこうなるんだよ!ちょっと水を持って来てくれ!」と言います。

部下は顔色を変えて「今すぐ行って来ます!」と言って席を立ったのですが、しばらくしても帰って来ませんでした。その間に、汚れはどんどんシャツに染み込んでいってしまうので、上司のイライラは頂点に達していました。

「お待たせしました!」と息を切らせて帰って来た部下の手には、何と車内販売で買ったと思われるペットボトルのミネラルウォーターが...

部下がどのような判断でミネラルウォーターを買ってきたかは分かりませんが、上司は服にシミを残さないための水が必要だった訳で、出来るだけ早く、水でしめらせた布か紙が欲しかったわけです。

部下が分かるように指示しなかった上司が悪いのが前提として、「またやってしまった!」と部下は氣が動転したため、「何のために」必要な水なのかを理解出来なかったのでしょう。

この後の上司と部下のやり取りはご想像の通りです。

正しい判断が出来ないのは氣の滞りが原因です。一生懸命しているつもりが、実は氣を滞らせているのです。

一つのことに執着すると、全体が見えなくなってしまいます。心が固定されて自由に使えなくなります。そして全体最適ではなく、部分最適に陥りやすくなるのです。

大事なことは「氣を滞らせない」こと

氣が通っているから、心を自由に使うことが出来るのです。これは「氣」と「心」の関係で最も重要な性質の一つであり、この執着という「氣」の滞りこそ、私たちの最大の課題といって良いのではないかと思います。

問題なのは「氣が滞っているとき」に自覚がないことです。自覚がないものは改善のしようがありません。そのため、「氣が通っている状態」「氣が滞っている状態」、それぞれの実感を持つことが重要です。

「氣が通っている」状態は元々あるべき自然な状態であり、特別な感覚はありません。

それは「健康である」ことに良く似ています。健康なとき特別な感覚はありませんが、様々な実感はあるものです。例えば「食事を美味しく感じる」「身も心も軽い」ときがそうです。

「氣が通っている」ときも実感はあるのです。

一つは「周囲のことを感じられる」状態です。氣が滞っているときは視野が著しく狭くなり、周囲のことが感じられなくなります。

もう一つは「全体でとらえている」状態です。全体最適で物事を捉えているときは氣が通っているときです。部分最適に陥っているときは氣が滞っています。

身体でいえば、全身で動いている(全身を一つに用いている)ときは氣が通っているときです。小手先など、部分で動いているときは氣が滞っています。

心身統一合氣道の稽古を通じて「氣が通っている」「氣が滞っている」という自覚を持つことで、良い状態を再現出来るようになって来ます。多くのアスリートは、これを求めて心身統一合氣道を稽古しています。

世界中の会員の皆様には、氣の滞りを解消することを大きなテーマに、ご一緒に稽古して参りましょう。

本年も宜しくお願い申し上げます。

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