2022/01/07

人の影響は双方向

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昨年、東京大学先端科学技術研究センターの教授の西成活裕先生が、「イグ・ノーベル賞」を受賞されました。

イグ・ノーベル賞は、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に与えられる賞で、世界的に注目されています。

その多くが専門雑誌に掲載されるユニークで尖った研究で、1万人超の候補の中から狭き門を突破した「栄誉ある賞」なのです。


西成先生たちの研究チームでは、「歩きスマホをしているときに、なぜ歩行者同士がぶつかりそうになるのか」を調査しました。

横断歩道などで人がすれ違うとき、一部の人が歩きスマホをします。

スマホを見ている歩行者は、周囲への注意が散漫になっているので、人とぶつかりやすくなるのは分かります。

実際は、周囲の人も「スマホ歩きしている人」のことを避けられず、自分は歩きスマホをしていないのに、ぶつかりやすくなるのです。

つまり、人がすれ違うときは、お互いに予期することによって、ぶつからないようになっていたのです。

このことから連想すると、「車」と「歩行者」の関係においても、運転する人だけが氣をつけていれば良いわけではなさそうです。スマホ歩きをしながら、「きっと車が避けてくれる」という考えでは成り立ちません。

研究結果によれば、一部の人の歩きスマホが歩行者全体の動きに影響するそうです。歩行者一人の注意が散漫になることで、全体が停滞するので、「自分一人くらいは大丈夫」という考えでも成り立ちません。

西成先生は「人間は無意識のうちに見ず知らずの人とも交流して、阿吽の呼吸で行動しているのです」と言われます。

なるほど、それこそ「氣が通う」ことであり、心身統一合氣道の技に通じます。氣が通っているから、相手を導き投げることができます。

心身統一合氣道を熱心に稽古なさっている西成先生には、日頃の技の稽古がこのように見えていたのでしょう。


考えてみれば、「人との関わり」は、総て同じようにも思えます。

「教える人」と「教わる人」においても、一方だけが影響を与えるのではなくて、双方が影響を与え合っています。

「教える人」も、「教わる人」から常に何かを得て変化し続けています。昔から「教えることは学ぶこと」といわれるのも良く分かります。

学校のように先生と生徒が向かい合って学ぶ価値は、お互いが意欲を持って臨むことで影響し合って、大きな効果が得られるところにあるのでしょう。だからこそ、「共に学ぶ姿勢」が大事なのです。


学生時代、私は合氣道部に所属していました。

理系大学の学生(特に新入生)は、コミュニケーションが得意でない人が多いため、何かを言われたときに「反応が薄い」ことがあります。

合氣道部の先輩で、現在、長岡技術科学大学の教授の三浦友史先輩は、事あるごとに「師範がもっと教えたくなってしまうように、ワクワクした感じで稽古しよう!」と新入部員に声をかけていました。

当時、私は「何のために」を理解していませんでしたが、先輩はこの頃から、「学習とは相互作用である」ことを理解していたのでしょう。

お寺の鐘が立派でも、橦木(鐘つき棒)が粗末では良い音は出ません。「反応が薄い」ということは、「得られるものも薄い」ということです。

食事を作ってもらったときもそうですし、何かお世話になったときも同じです。反応が薄いと双方にとってプラスになりません。

積極的に求めることによって、相手の持っている力を引き出せます。

コミュニケーションの本質だな、と思います。


西成先生のお話では、受賞後の取材でこんな質問があったそうです。

 「すごい研究なのは分かりましたが…、オチはどこにあるのですか」

西成先生も笑わせるための研究しているわけではないので、「オチ」などあるはずがありません。「イグノーベル賞」が世の中に正しく理解されるのには、少し時間がかかりそうです。

研究内容に関心のある方は、東京大学のサイトをご覧ください。

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2021/12/01

心から悲しむ

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心身統一合氣道の技の稽古で、最も重要なのは「土台づくり」です。

土台となる姿勢が乱れていては、相手を導き投げることはできません。相手を投げるより前に、まず自分の土台を整えることです。

臍下の一点に心を静めると、心の状態も身体の状態も盤石になります。すると、外からの「力」や「刺激」に対して振り回されなくなります。

一つ一つの物事に、正々堂々と正面から向かい合うことができます。

目の前のことから上手に回避しようとすると、かえって土台を失い、結果的にひどく振り回されることになります。そういう経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

動じない人間になるため、そして、常に冷静な判断ができるために、多くのリーダーが心身統一合氣道で「土台づくり」を学んでいます。

私自身も、日々、稽古を通じて磨いています。

今から10年くらい前の話です。私は両親が年を経てからの子供だったので、30代で両親を見送ることになりました。

父が亡くなった際は本当に悲しく、逝去して翌々日の講習会の指導では立っているのもやっとで、何とか役割を全うしました。さらに、ラスベガスで大きな講習会の指導がありましたが、成功裡に終わりました。

そうこうするうちに悲しみを乗り越え、日常を取り戻していきました。

その二年後に母が亡くなった際は、そこまで悲しみを感じることはなく、逝去した翌日から、いつも通りに指導の現場に立っていました。父が逝去した経験があるので、心が強くなったくらいに考えていました。

特に、気性の激しかった母とは、何かと対立することも多かったので、亡くなったことで「解放された」気持ちもありました。だから、「それほどの悲しみは感じないだろう」と捉えていたのです。


そんな中で、不調は突然訪れました。

突発性難聴、目まい、偏頭痛、胃腸炎、肋間神経痛、喘息など、一つの不調が表れ、それが収まっては次の不調が表れます。指導や講演には穴をあけられないので、氣力だけでやり遂げていました。

そんな不調が半年ほど続きました。

ある晩、どうしても眠りにつくことが出来ず、思い切って起き上がって、そのまま朝まで「氣の呼吸法」をすることにしました。すると、呼吸が静まるほど、忘れていた母との思い出が頭に浮かびます。

「いろいろあった母だけど、大事に育てられたのだな…」

自然に涙が流れてきて、「ああ、自分は本当は悲しかったのだな」と、はじめて母の死を心から悲しむことができました。無意識のうちに私は「悲しくない」と自分を抑圧していたのでした。

その後、あれだけ続いた不調は霧が晴れて散るようになくなりました。

自分を抑圧すると土台を失ってしまうので、心と身体の状態は乱れる。そんなことは日頃の稽古で十分に理解しているはずなのに、母の死に直面して、私は自覚なくそれをやってしまったのです。

土台があるからこそ、向かい合うことができるのです。


一昨日、私にとって大事な方が急逝しました。

心身統一合氣道のよき理解者であり、とてもお世話になりました。数日前まであれだけ元気に活動していたのに、突然の別れでした。お若いのに残念で仕方ありませんが、天命を全うされたのだと思います。

大事な方が亡くなったのだから、いまは心から悲しみたいと思います。そして、前に進んでいきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

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2021/11/01

学び続ける

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いま、ある企画で野球の広岡達朗さんと何度も対談を重ねています。

来年2月9日に90歳を迎える広岡さんは、現在も精力的に活動されていて、「どうしたらその人が持っている力を引き出せるか」を日々、研究し続けていらっしゃいます

そんな広岡さんは、日本のプロ野球の将来を危惧なさっています。

広岡さんのお話によれば、日本のプロ野球選手は現役時代に活躍すると、「成し遂げた」という気持ちになり、勉強しなくなってしまうそうで、指導者としてほとんど学ぶことなく、監督・コーチになるのだそうです。

日本のプロ野球には指導者として学ぶ確固たる仕組みもないそうで、学ばない指導者が育てたら、学ばない選手が育つのも当然とのこと。

目先のことしか見なければ、学ぶことを怠っても影響ないように見えます。しかし、10年後、20年後を見据えれば、学ぶ姿勢を失った人や組織がどうなってしまうのか、気づいたときには取り返しがつかなります。

「近い将来、日本の野球界は間違いなくそのツケを払うことになります」

広岡さんはこう言われますが、この悪循環は決してプロ野球だけではなく、あらゆる分野で生じていることで、日本の未来を決定づける最重要課題の一つだと私は感じました。

日本には「道」のつく学びがあります。本来、「道」がつく学びは一生かけて学び続けることが前提で、目先のことに左右されずに、長期的な視点で一つずつ着実に積み重ねることに重きを置くものです。

手っ取り早く情報が得られる現代だからこそ、一生というスパンでみる「道」が果たす役割があるのだと思います。広岡さんも日々、心身統一合氣道から学ばれていると言われます。

「学び」そのものについても、広岡さんは食事を例えにお話されます。

いくら外食が美味しくても、外食ばかりでは栄養のバランスは偏り、人間は刺激に慣れていくので、そのうち美味しく感じなくなります。

日々の質素な食事が体を作っているのです。質素だからこそ、毎日美味しく食べられるように、作る側も食べる側も様々な工夫が必要です。

美味しく感じているときは唾液が十分に出て、消化の助けになります。唾液は細菌の繁殖を抑え、病気の予防にもなります。

しかし、現代人はスマートフォンや新聞などを見ながら食べ物を口に放り込んだり、良く噛まずに飲み込んだり、「栄養だけ取れれば良い」という心身分離の食事の取り方をしています。

「心が身体を動かす」のですから、食べ物にしっかり心を向けなければ唾液は少なくなるわけで、自らそういう状況を作り出しています。昔から言われる「感謝して頂く」ことには、きちんと意味があるわけです。

天地自然の理に反することをしながら、いざ体調が悪くなると、他力本願で病院に行って医者に治してもらおうとする。それでどうやって健康を維持できるのか、と広岡さんは言われます。

これは食事の取り方に限ったことではなく、「何事においても心を主体的に使うことによって、人間が本来持っている力が発揮されるのです」と広岡さんは言われるのです。

その言葉に私はハッとして、「学びも同じことですね」とお尋ねしました。

日々の地道な稽古によって身につくのですから、楽しんで学ぶことが大切で、ただ教わるのではなく、一つ一つの技にしっかり心を向けて主体的に取り組むことが重要です。

それが食事における唾液と同じ役割を果たすのでしょう。

同じ技を繰り返すとします。目標もなく、何となく身体を動かすだけでは決して向上しません。

同じやるなら、呼吸が乱れないことをテーマにやってみよう。
同じやるなら、最初から最後まで同じペースでやってみよう。
同じやるなら、視線が落ちることがないようにやってみよう。

主体的に取り組むことで、昨日より今日、今日より明日が必ず良くなります。飽きることなく積み重ねることが「稽古」なのです。自ら心を向けて、工夫をすることこそが「学び」だということです。

当たり前のことに聞こえますが、実際はできていない大事なこと。

特に「教わる」ことが当たり前になると、主体的に取り組む姿勢が欠如して、そこには何の工夫も研究も生まれなくなります。

教え方が親切になることは、教え方の工夫や研究においては良いことですが、ともすると学ぶ側の主体性を奪いかねません。「教える側」も学びならば「学ぶ側」も学び、常に学び続けることです。

私自身も一生、学び続けていきたいと思います。

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2021/10/01

息心の行

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今回は先日発売された新著『心と体が自在に使える「気の呼吸」』で、ページ数の関係から割愛したテーマです。


心身統一合氣道の稽古の一つに、50年近く継続している「息心の行(そくしんのぎょう)」というものがあります。

取っ手の付いた鈴を振りながら、ひと呼吸で息を吐き続ける荒行です。鈴を振りながら、「とほかみえみため」という音で発声します。

始めは「」「」「」「」「」「」「」「」という8音、続いて「」「」「み」「み」「め」という5音、最後に「ほかみ」「みため」という2音に変化していきます。

2音になってから1時間程度、鈴を振りながら息を吐き続けます。一日かけて、これを繰り返すこともあります。

私は6歳のときからこの行を続けていますが、最初は本当に辛く、コツを掴んでからは、年々、楽になっていきました。


息心の行では、特に大事なことが二つあります。

一つは、全身に力みなく行うこと。

大きな声を出そうとすると、身体に力みが生じて吐けなくなり、数分もしないうちに苦しくなってしまいます。

「声を発する」ということは「息を吐く」ことであり、全身の力を抜き、全身を一つに用いて息を吐くことによって、ひと呼吸で吐けます。

始めは力みなくできていても、継続するうちに徐々に力が入り、後半になると乱れてしまうことも少なくありません。最初から最後まで、同じように続けられるのが理想の状態です。

もう一つは、全身全霊で行うこと。

息は出せば、自然に入ってくるものです。

長い時間行うからといって、ペース配分を考えて息の出し惜しみをすると、息が十分に入ってこなくなり、すぐに苦しくなってしまうのです。

全身全霊で息を吐いた次の瞬間には自然に息を吸うことができて、ずっと続けることができます。

「出し惜しみをしない」ことを体得するには、最高の機会なのです。


息心の行を学ぶには、まずは氣の呼吸法を実践する必要があります。

氣の呼吸法で、全身に力みがない状態で吐けるようになることで、吐く息が最後に自然に静まるようになります。すると、ひと息で吐いても、最後に一瞬で静まるようになります。

これが身につくと、発声、例えば号令や気合いが変わってきます。声を発した瞬間に音が拡がり、最後が静まっていくようになります。すると、遠くにいる人にもクリアに伝わる声になっていくのです。

さらに、身体の負担が少なくなります。私は一日に長時間講演するときがあり、声を発し続けるわけですが、幸いなことに、この訓練のお陰で喉が潰れることがありません。


ひと呼吸で吐くことは、パフォーマンスにも直結しています。

動作と呼吸が自然に一致するとき、私たちは力を発揮することができます。基本的に、私たちは動く瞬間は自然に息を吐いています。

ゆえに、息を吐くときに力みがあると、動作にも影響を与えてしまい、パフォーマンスを発揮できなくなってしまいます。

息心の行で力みなくひと呼吸で吐けるようになることが重要で、アスリートや俳優、伝統芸能の皆さんにも、よく体験いただきます。

新型コロナウイルスの感染拡大防止で、現在はなかなか一緒に行えませんが、感染が収束したら、息心の行をぜひ再開したいと思います。

「息を吐く」ことは、本当に奥が深いと思います。

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2021/09/01

氣合い

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私は心身統一合氣道の継承者です。

継承者として指名される前に、先代の藤平光一先生から幾つか課題を出されました。その最後の課題が「氣合い」でした。

当時、藤平光一先生の生家の代官屋敷には広い竹林がありました。そこに木剣を持っていき、剣を構えた状態で氣合いをかけるのです。

一週間に一度、この試験がありました。「イエイ!」という音で氣合いをかける、ただそれだけなのですが、これが最も難しく、半年かかっても許しが出ませんでした。

ただ大声を出すだけでは、屋敷の中にいる藤平光一先生に届きません。音が散ってしまうような感覚で、喉もすぐに潰れてしまいます。

何度も声を枯らしてしまう私に、藤平光一先生はこう声をかけました。

「お前はただ大声を張り上げている。氣合いとは、呼吸なのだよ」


あまりに出来ない自分に落胆し、あるとき気分転換で外に出ました。

空気が澄んだ冬の夜でした。辺り一帯には人も建物もありません。気温が低いと音がよく響くと言いますが、外に出て氣の呼吸法をしていると、遠くから動物たちの鳴き声が聞こえます。

呼吸が静まっていき、心地良く息を吐けるようになったときに、ふと出来そうな氣がして、「イエイ!」と気合いをかけてみました。すると、今まででは考えられないくらい、音が拡がっていきます。

「ああ、これだ!」

「声を発する」ということは「息を吐く」ということ。大声を出そうとするときは、身体に力みが生じ、呼吸が浅くなる。「声」の質は「呼吸」の質、だから深い呼吸を目指せば良いのだ!

それ以来、気合いをかけるよりも、氣の呼吸法をしっかり実践し、「身体のどこにも力みがない状態で息を吐く」訓練を始めました。

無限小に静まった状態から音を発して、また無限小に静まった状態に戻っていく。始めも、終わりも、波立って静まらないときは、上手くできないことも身体で理解しました。

そこから1ヶ月ほど経ったある日、いつも通りに竹林で気合いをかけた後、屋敷にいる藤平光一先生の元に戻ると、「それで良い。今日はここまでしっかり届いていた」と無事に合格となりました。

最後の課題を達成した瞬間でした。


それから様々な変化が表れました。

道場では号令が遠くまで響くようになり、よく伝わる指導になりました。人間は全身で音を感じていると言われていますが、発声が変わることで、明らかに周囲に与える影響が変化しました。

不思議なことに、英語の会話でも、よく伝わるようになりました。講演などで一日中、話をしていても、喉はつぶれなくなりました。交渉事も以前よりもスムーズに運ぶようになりました。

発声によって様々なことが変わっていったのです。

「氣」の観点でいえば、氣が通っていると、小さな声でも遠くに伝わります。反対に、氣が滞っていると、大きな声でも近くに伝わりません。

リラックスすることによって周囲に「氣」が通うのですから、どこにも力みなく息を吐くことが、最短で身につける方法だったのでしょう。


この経験から、舞台関係の皆さんによく「氣」を指導させて頂きます。

氣合いや号令をかけると、皆さん、発声にたいへん興味を持ちます。勿論、私は専門的に発声を学んだわけではありませんが、どうやら「声を発する」という土台の部分がそこにはあるようです。

舞台の役者さんも、小さな声でも本当に遠くまで届く人がいます。どれほどの訓練を積み重ねて来たのかと、私自身も積み重ねて来たものがあるので、いつも感動を覚えます。

先日、藤原竜也さん主演の舞台「ムサシ」を観劇して来ました。初演から12年間、この舞台は海を超えてロンドンやニューヨークでも上演され、辛口で知られる英米の劇評家や観客から大絶賛されました。

当時27歳だった藤原さんが35歳の宮本武蔵を演じるにあたって、人としての奥行きを表現するために、料理でいうところの「隠し味」として、心身統一合氣道の門を叩きました。

いま39歳となった藤原さんが演じる宮本武蔵は、それはもう圧巻でした。心から素晴らしいと感じた舞台でした。

氣の呼吸法で得られることは、様々なことに通じているようです。

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2021/08/01

不動心

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嫌なことを言われ、それが氣になって目の前のことに集中できない。誰でもそんな経験があるのではないでしょうか。

一つのことにとらわれると、他のことに心を使えなくなってしまう。この状態を「心が停止している」といいます。

心身統一合氣道の技の稽古でも、同じことが起こるときがあります。

相手が力いっぱい自分の手首を持つと、持たれたところが氣になって、まったく動けなくなってしまうのです。

確かに持たれた場所は動かないかもしれませんが、少し冷静になれば、持たれていない場所は、自由に動かせることが分かるはずです。指先から、あるいは本体から動けば、何の問題もなく対処できます。

しかし、ひとたび「持たれた」ことにとらわれて、心が停止すると、その発想すら持てなくなり、まったく動けなくなってしまうのです。

これは実におそろしいことです。

日常生活でいえば、これが「気になること」にあたるわけです。心が一つのことにとらわれてしまうと、「何もできない」と勘違いしてしまって、心を前向きに使うこともできなくなります。

心の停止状態を防ぐには、いったいどうしたら良いのでしょうか。


それには心の性質を理解することが第一歩です。

心の動きを波に例えれば、本来は波が静まっています。そこに水滴が落ちると、その瞬間、水面に波が立つのは当たり前で、その波はまた無限小に静まっていきます。

私たちの心も同じです。

事が生じたときに、心が動くのは当たり前のことです。「心を動かさないように」「影響を受けないように」と抵抗をすると、水面は静まるどころか、余計に波立ってしまうものです。

嬉しいときは嬉しい、悲しいときは悲しい。「喜んではいけない」「悲しんではいけない」と抑圧する必要はなく、心から喜び、心から悲しんで良いのです。

悪口を言われたら、氣になるのが当たり前。「氣にしないように」と抵抗するから、余計に心が乱されるのです。大いに氣にして、その上でまた無限小に静まっていくだけです。

竹やぶに風が吹き込んで来たら、音がするのが当たり前です。竹やぶから風が過ぎ去ったら、音がしなくなるのも当たり前。それこそ「天地自然の理」であり、心の動きも然りということです。

大事なことは「動いても良い」と捉えること。波立っても良いのです。その上で、次の瞬間に元の静かな状態に戻っていくだけです。

すると、何事にも「さあ、いらっしゃい!」という気持ちで迎えられます。


「不動心」とは、心が動かなくなることではありません。心が動かなくなったら大変で、ましてや厚顔になることでもありません。

さらに、「心を静める」とは、感受性が鈍くなることではありません。感受性はより豊かに、そして感じたことに振り回されなくなります。

事が生じた瞬間、心は動きますが、次の瞬間にはまた静まっていきます。この状態を「心が静止している」といいます。

同じく止まっているように見えても、「停止」と「静止」では大違いです。

この辺りのことは鼎談本『動じない。』で広岡達朗さんと王貞治さんも、ご自身の体験を通じて語っていらっしゃいます。


心身統一合氣道では、「氣の呼吸法」や「氣の意志法」で稽古します。

外界からの刺激に、その都度、心が乱されていては技にはなりません。心が静止している状態だからこそ自在に対応することができます。

この稽古は道場だけではなく、日常でこそ実践する価値があります。むしろ、日常の方がより難易度が高いものです。

頭の理解ではなくて、身体の訓練だからこそ、実際に役に立ちます。私自身も日々、実践しています。

長引く新型コロナウイルスの影響で心は停止しやすくなっています。

一つ一つのことにとらわれず、いつでも心を前向きに使えるように、ご一緒に「不動心」を磨いて参りましょう。

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2021/07/01

全身で捉える

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私には、子どもの頃からお世話になっている歯科医の先生がいます。

先日、クリニックでの検診でたまたま一緒になった方で、全盲の大学教授(心理学:聴覚振動知覚)をご紹介頂きました。

明るく朗らかな方で、すぐに打ち解けて話をさせて頂きました。NHK総合「あさイチ」に私が生出演した回をご覧頂いていたようでした。

あまりに自然なので始めは氣がつきませんでしたが、相手の姿は見えていないはずなのに、相手に心をしっかり向けてお話になります。

その後、教授のご著書を拝読して、その意味が分かりました。

音が描く日常風景 : 振動知覚的自己がもたらすもの
伊藤精英(著) 金子書房

教授はスポーツの事故で失明をした後、視覚以外の複数の感覚が、有機的に組織化されていくプロセスを経験されたそうです。

本では、音がいったい何を指し示すのか、音をどのように聴いているのか、音が生活とどのように結びつくのかが書かれていました。

一例をあげれば、音を聴くことで障害物の位置を把握しているそうです。健常者が目隠しをして一時的に視覚情報を遮断したとしても、同じことをするのは難しいとのこと。

人間の身体は本当にすごいもので、一つの感覚を失ったとしても、他の感覚がそれを補っていくことが分かります。全身を一つとしてみれば、部分が相補的に機能しているのです。

教授は、「音」を通じて私を「見ていた」のでした。


心身統一合氣道会でも、全盲の指導者が活躍しています。

健常者と同じ様に昇段審査を受験して、見事に合格しました。審査を見守っていて私が最も驚いたのは、視覚の情報がないにも関わらず、前回り受身をしていたことでした。

視覚以外の複数の感覚によって、距離を正確に掴んでいるからこそ、安全にできるのでしょう。


全身を一つに捉えることを「統一を保つ」といいます。反対に、身体を部分で捉えることを「統一を乱す」といいます。

技の稽古で、相手を投げようとして腕や肩に力みが生じるのは、まさに身体を部分的に使った結果、統一が乱れているのです。

心身統一合氣道の技は、統一を保つことによって初めてできます。全身を一つに用いて投げるときにできるのです。

初心者の皆さんは「統一を保つ」と言われても感覚が分かりませんので、「折れない腕」を稽古します。

片腕を前に出して、パートナーにその腕を力いっぱい曲げさせます。

「曲げられないように」と腕に力が入ると、土台が崩れてしまい、結果として腕は曲がってしまいます。

バランスの取れた姿勢を確認した後、土台を保ってさえいれば、相手がどれだけ力いっぱい曲げても影響を受けません。

「部分」で支えるのではなく「全身」で支えることによって、ほとんど力を入れていないのに影響を受けなくなることを体験し、「全身を捉える」という感覚を初めて得られるのです。

心身統一合氣道の稽古で最も重要なのは「土台づくり」です。全身で捉えることで、持っている力が存分に発揮されます。

まさに「全身全霊」です。

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2021/06/01

肌で感じる

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昔から「肌で感じる」という言葉があります。

国語辞典では「実際に見聞きしたり体験したりして感じとる」とあり、日常生活でもよく使われる言葉です。

実際に、肌の感覚は極めて重要です。

例えば、足裏の情報。

私たちは足裏からの情報で、無意識のうちにバランスを取っています。その情報がなければ、立つことも、歩くこともできません。

例えば、音の響き方。

音楽を聴くとき、耳から入る情報だけではなく、皮膚で感じています。生演奏の音の響きが異なるのは、全身で感じ取っているからです。

例えば、空気の動き。

私たちは皮膚からの情報で、空気の流れを感じ取っています。「勢い」も同様で、肌から得られる情報で感知しています。

そして、心身統一合氣道の稽古においても、肌の感覚が重要です。

氣が通っている手で相手に触れると、相手が氣を出しているのか、氣を引いているのかが自然に分かります。だからこそ、どのように導けば良いかが分かり、適切に対応できます。

相手を投げることで精一杯になっているときは、この感覚が鈍いので、どうしたら良いかが分からなくなってしまうのです。


それでは、どうしたら肌の感覚が研ぎ澄まされるのでしょうか。

それには「全身に氣が通っている」必要があります。

力んでいるときは、力が入っている場所で氣が滞ってしまうので、肌から得られる情報が少なくなります。

虚脱状態になっているときは、氣が切れてしまっていますので、ほとんど情報が入って来なくなります。

全身の力を完全に抜いて、正しくリラックスをしているときに、全身に氣が通って、肌で感じることができるのです。

多くの技は相手の身体に触れて投げますが、その触れ方が大事で、相手の状態を肌で感じ取ることです。

稽古において、乱暴に触れたり、適当に触れたりしていたら技の上達はありません。相手の状態を正しく理解できるように触れることで技は上達していきます。


私が「肌で感じる」重要性を正しく認識したのは、内弟子時代に氣圧法を深く学んだことがきっかけでした。

氣圧法は、心身統一合氣道に基づいた健康法です。

調子がわるいとき、多くの場合、身体は痛くなるか固くなります。氣が出ている指先を置くことによって、痛いところは軽減していき、固いところは柔らかくなっていきます。

血行が良くなることで、結果として回復が早くなるのです。

しかし、氣圧法を行う者が力んでいたり、虚脱状態だったりすると、相手に触れてもほとんど情報が入って来ません。すると、氣圧法の効果が思うように得られなくなるのです。

正しくリラックスした状態で相手に触れると、相手の痛いところ、固いところが、文字通り「手に取るように」良く分かります。

これと比較して、当時の私の技の稽古での感覚は鈍かったのです。触れ方を研究するようになって、技が変わっていきました。

氣の動きは全身で感じ取るものであり、それには視覚も含まれますが、主たる感覚は肌によるものだと私は考えています。むしろ、視覚にこだわっているときは、肌の感覚が鈍くなっています。

指導者にとって、技の稽古と氣圧法の修練は車の両輪だったのです。


「肌で学ぶ」「肌が合う」など、日本語には肌に関連する慣用句があるのも、日本人がまさに「肌の感覚」を大切にしてきたからでしょう。

日々の稽古で、「肌で感じる」ことを大切にして頂きたいと思います。

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2021/05/01

形のないシグナル

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NHK総合「あさイチ」の番組で、新型コロナウイルスによる疲れ・イライラ・不安に対して、様々な切り口で具体的な対処法をお伝えしました。

放送が終了した後、日本全国から大きな反響がありました。

番組の最後に、「形のないシグナルをキャッチする」ことに触れました。私たちは「言われてから動く」「態度で示されてから動く」ことが多いですが、それではタイミングとして遅すぎることを説明しました。

心身統一合氣道の稽古でいえば、相手が胸突きで攻撃して来るとき、自分の身体に当たってから避けるようなもので「手遅れ」です。

相手が攻撃するとき、身体が動く前に、「攻撃しよう」と心が先に動きます。こちらの心が静まっているとき、相手の心の動きが「気配」として感じられます。形のないシグナルをキャッチできるのです。

気配を感じ取ったときに対処することによって、出遅れることなく、落ち着いて行動することができます。


レストランで注文したいとき、店員さんが気がつかないことがあります。それほど混んでいるわけでもなく、手が空いているにも関わらずです。

これは「お客様から声をかけられたら対応しよう」としているためです。「お客様から声をかけられる」という行為を、先述の胸突きに例えると、突かれてしまってから動いていることになります。

お客様が何かを頼みたいと思うときは、その瞬間、先に心が動いています。それが「気配」というシグナルとなって表れているのです。

形のないシグナルをキャッチして動く人は、お客様が必要としていることを、必要としているときに提供することができます。そういう店員さんのことを、私たちは「気が利く人」と表現するのでしょう。

形のある「言葉」や「態度」にフォーカスするのか、形のない「氣」にフォーカスするのか、それによって結果は大きく変わっていきます。


藤平光一先生はこれを戦地で会得しました。危機があるときは、形のないシグナルが予兆として表れています。

心が静まっているときは、予兆をキャッチして回避することができますが、心が乱れているときは、危機が生じてから対処することになり、戦地ではそれでは手遅れになるのだそうです。

そのため戦地でも日々、氣の呼吸法で心を静めることを実践しました。

「あさイチ」の番組でも、王貞治さんが藤平光一先生から教わった「波静まった水面」のお話をなさっていました。

風の強い日には、湖の水面には波が立ちます。すると空に月が出ていても、月はその姿を湖面に映し出さなくなります。波が無限小に静まり鏡のようになると、月は月としてその姿を表します。

心は湖面の波のようなもので、波が無限小に静まっているから、湖面に姿を正しく映し出します。このとき、相手が発している氣をシグナルとしてキャッチできるのです。

頭で理解しよう、目で見ようとすると、かえって分からなくなるものです。唯一の方法は「心を静める」ことです。

この辺りのことは、広岡達朗様・王貞治様との鼎談本『動じない。』で、それぞれのお言葉で詳しく解説されています。


シグナルをキャッチするとは、「顔色を窺う」ことではありません。間違えやすい点なので注意が必要です。

相手の顔色をみるときは、心は「どのように思われているか」にとらわれて視野は狭くなり、シグナルをキャッチできなくなります。

心の動きは「氣」によって伝わります。そして、心が静まっているときに、氣の動きを理解することができます。さらに、氣が動いたときに行動すれば、出遅れることがなくなります。

一生懸命しているのに成果がでないときは、相手の言葉や態度をみて、それから行動していることが少なくありません。常に出遅れているので、ボタンの掛け違いのようになってしまうのです。

こういうことは身体を使って、全身の感覚で習得するのが最も早いので、心身統一合氣道の技の稽古で、ぜひ磨いて頂きたいと思います。

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2021/04/01

感情と呼吸

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長引く新型コロナウイルスの影響で、イライラしやすくなった。ちょっとしたことが気に障って、家族とぶつかるようになった。同じ悩みを持つ方は多いのではないでしょうか。

感情をコントロールすることは難しく、イライラしているときに、「イライラしないように」と自分に命令すると余計に心は乱れるものです。それでは一体、どうしたら良いのでしょうか。

幸いなことに、「感情」と「呼吸」は密接に繋がっています。感情をコントロールすることは出来なくても、呼吸を整えることで、結果として感情をコントロールすることができます。

通常、多くの人は自分の呼吸について無自覚です。そこで、まずは自分の呼吸に注意を向けることから始めてみましょう。

  • いま、どのような呼吸をしていますか。ゆっくりとした呼吸をしていますか。それとも速い呼吸をしていますか。

  • ゆっくりとした呼吸をしている場合は、あえて速くしてみましょう。どのような感覚がありますか。

  • 速い呼吸をしている場合は、あえてゆっくりとしてみましょう。どのような感覚がありますか。

感覚の違いを得られたら、今度は日常の呼吸を思い出してみましょう。

怒っているときは、「怒りの呼吸」になっています。怒っている状態を思い出して、どんな呼吸かを再現してみましょう。

良く分からないという方は、日常生活で実際に怒っているときに、自分がどんな呼吸をしているか観察してみましょう。面白いことに、観察すること自体で怒りは収まっていくはずです。

同じ様に、イライラしているときは、「イライラの呼吸」になっています。緊張しているときは、「緊張の呼吸」になっています。不安を感じているときは、「不安の呼吸」になっています。

それぞれの呼吸を再現してみましょう。いずれも、とても浅い呼吸になっていることが分かると思います。

今度は、どんなときに最も心地良く息を吐いているかを思い出してみましょう。自分が心から素晴らしいと感じるものに触れたとき、出会ったとき、どのような呼吸になっているでしょうか。

登山が好きな方であれば、視界のない急な山道を登っているとき、急に視界が開けて、そこに絶景が広がっていたとします。「わ~!」という声を発して、心地良く息を吐いていませんか。

甘い物が好きな方であれば、どなたから頂き物をしたときに、開けてみたら自分が大好きな高級スイーツだった。「わ~!」という声を発して、心地良く息を吐いていませんか。

そんな息を吐いているとき、力みがなく深い呼吸になっています。氣の呼吸法を実践する上で、これこそ最も大事なポイントです。

多くの人は「何秒吐こう」「長く吐こう」など、自分に命令しています。つまり、「抑圧の呼吸」になっているのです。

管理の厳しい家庭で育つお子さんは「家が息苦しい」と訴えます。それは肺の問題ではなく、抑圧された環境によって家の中で「抑圧の呼吸」になっているからです。

日頃から心地良く息を吐くことを繰り返して身体に覚えさせると、感情が乱れたときに同じ呼吸をすることによって、結果として感情に振り回されなくなっていきます。

私は少年時代、気性がとても荒く、外からの刺激に過敏に反応し、周囲の人や物にあたることがありました。呼吸が浅くなっていることで、刺激が何倍にも増幅されていました。

そんな私を心配した藤平光一先生が「呼吸を静める」ことを教えました。この訓練のお陰で感情に振り回されることがなくなっていきました。私自身、呼吸の重要性を身に染みて理解しました。

もし、環境を変えられるのであれば、環境を変えるのが近道でしょう。しかし、新型コロナウイルスのように、それができないのであれば、自分を守る手段として呼吸を静めることが重要なのです。

呼吸と感情は繋がっています。ご一緒に実践して参りましょう。

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