2022/06/01

呼吸を真似る

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10年以上は前でしょうか。

ものまねタレントの清水ミチコさんが、ある雑誌の書評ページで、藤平光一先生の著書『氣の呼吸法』を紹介していました。

それがきっかけで、清水さんのライブ映像を見ることにしました。とても楽しいライブで、いちばん印象に残ったのが、「ものまねは、呼吸なんですよ」という清水さんのひと言でした。

日頃から、稽古で私は「息を吐く」ことを突き詰めていましたので、「声を発することは、息を吐くことである」のは理解していました。

ただ、誰かの発声を真似するという観点がなかったので、それ以来、どうしたらその人の声になるか、研究を重ねて来ました。

まずは、清水さんがよく真似る瀬戸内寂聴さんや矢野顕子さんから。最初はまったく上手くいきません。どうやら「似せよう」という意識自体が邪魔しているようです。

そこで、いったん声のことを忘れて、呼吸だけみるようにしました。声ではなく、呼吸を真似するようにしたのです。

すると、あら不思議。男性と女性で音域の違いがあるはずのに、だんだん似て来るのです。なるほど、呼吸が大事なようです。

呼吸には特徴や癖のようなものがあって、抑揚がある人、力強い人、力みがある人、虚脱がある人など、実にさまざまです。

それが正確に再現されると、人は「似ている」と感じるのでしょう。

これが分かって以来、呼吸を注意深く観察するようになりました。これまで、どれほどの数の人々の真似をしてきたか分かりません。


こんな好奇心だけでして来たことが、後々、役立つことになります。

一つは「氣の呼吸法」の指導。

指導していると、自然に息を吐くことができない人が多くいます。これまで数多くの呼吸の「癖」を観察してきた経験から、「何が苦しくさせているのか」が良く分かるようになりました。

一つは「氣合いや号令」の指導。氣合いや号令にはその人の呼吸の癖が直に表れます。

通常であれば、発声は感覚的な表現で指摘されることが多いので、指摘を受ける相手はなかなか理解できません。

これまでの経験から、その癖を私が真似してみせることによって、「このようになっていますよ」とお伝えできるようになりました。

自分がしていることを外側からみると、人は癖を自覚することができます。自覚さえできれば、氣合いや号令は自ずと良くなっていくのです。

どうしたら出来るかを具体的に示せるようになりました。

「学ぶ」とは「まねぶ(真似ぶ)」と言われますが、本当にそう思います。


心身統一合氣道は、役者さんも多く学んでいらっしゃいます。

「発声」とは「呼吸」であり、心の状態は呼吸に表れていることから、感情の表現と呼吸の状態は密接な関係にあります。

それぞれの感情のときには、それぞれの呼吸の状態がありますので、その呼吸になりさえすれば、声は自然に出てきます。感情と呼吸に乖離があると、聞く者にとって違和感になるわけです。

身体のどこにも力みがなく、全身に氣が通っているとき、呼吸は自在になります。すなわち、発声も自在であるいうことであり、ゆえに、役者の皆さんも関心を持つのでしょう。

私自身も、人前でお話しをする機会が多くありますので、話す内容以上に、どのような呼吸で伝えるかを大事にしています。呼吸の状態によって、伝わり方は大きく変わるからです。

心身統一合氣道の技においても、呼吸の状態が極めて重要です。技がうまくいくときには、うまくいくような呼吸になっているからです。

上級者にとっては、呼吸を真似る(盗む)ことも、大切な稽古なのです。

私は今も、日々楽しんで研究しています。

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2022/05/01

新鮮な感動

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日本画家の小倉遊亀先生は105歳という長寿を全うされました。藤平光一先生に同行し、鎌倉にあるご自宅を訪問したことがあります。

遊亀先生は、藤平光一先生の師匠の一人である小倉鉄樹先生の奥様で、藤平光一先生が鎌倉に参禅するたびにお世話になったそうです。

私が訪問したときには、かなりのご高齢で、藤平光一先生との再会を涙を流して喜んでいらっしゃいました。

遊亀先生は車椅子の生活でしたが、毎日、筆は持ち続けていました。その日は、バナナを題材に静物画をお描きになっていました。

ご家族の話によれば、筆の進みがゆっくりなので、バナナが次第に弱り、黄色から茶色、茶色から黒色に変化していくそうで、遊亀先生のお描きになるバナナも、日々、変化していきます。

最終的に、ご自身の画の黒いバナナをみてひと言。

「不味そう……」

画を完成させるだけならば、似た形の新しいバナナに取り替えれば良いわけですが、見たままに、感じたままに、真っさらな心の状態で描き続けるお姿に衝撃を覚えました。

「画を描くとは何か」を深く考えさせられました。


その後、藤平光一先生の下で私の内弟子修行が始まりました。

大きな壁が立ちはだかり、総てが上手くいかなくなることがありました。それも一度ではなく、何度もその状態に陥ります。

あるとき、ふと小倉遊亀先生のことを思い出しました。

「そうか。自分は目の前のことを何も見ていない、感じていないのだ」

いまこの瞬間に、心が向いていなかったのです。

藤平光一先生が大事なもの、素晴らしいものに触れるときは、毎回、初めてのような反応を示していました。

お供をしていて「前回も同じことがあったのに、お忘れになっているのでは」と思うことがありましたが、実はそうではなかったのです。

毎回、真っさらな状態で心を向けているからこそ、藤平光一先生は新鮮な感動が得られていたのでした。

稽古においても、同じ動作を繰り返すうちに、「なぞる」ことを始めます。

私が物事に行き詰まるときは、過去の体験がすでに心にあって、目の前のことに心が向いていないときに生じることに氣がつきました。

一回ごとに真っさらな状態で心を使うから身につきます。

「稽古とは何か」を深く考えさせられました。


身体は鍛えれば自在に使えるようになります。心も同じであり、鍛えれば自在に使えるようになります。

同じことをするにも、毎回、真っさらな状態で心を向けることを訓練すると、悪い意味での慣れが生じません。毎回、新しい発見があります。

反対に、日常でなぞることを繰り返すと、慢性的な慣れが生じて、何をしても感動や発見がなくなっていきます。

人に何かをしてもらうことに慣れてしまうと、当たり前になります。すると、感謝の気持ちも持てなくなっていきます。

これは、とても恐ろしいことです。

経営者団体の外部講習で質疑応答をしたとき、一人の経営者から、「自分は何をしても感動が得られないのです」という相談を受けました。事業は順調、家族も元気で、何一つ問題がないにも関わらず、です。

お顔は土気色をしていて、生気がまったくありませんでした。

「本日の講習で体験されていかがでしたか」とお尋ねすると、「今日は楽しかったです」と答えます。そこで「それでは思い切って、稽古を始めてみませんか」とお誘いしました。

初めてのことに全身全霊で取り組むことが、真っさらな状態で心を向ける訓練になったのでしょう。そのうちに昇級審査に合格して、子どものように喜んでいらしたのが印象的でした。


今でも様々な瞬間に、私は小倉遊亀先生の画のことを思い出します。

さあ、今日も新たな一日です。

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2022/04/01

受身の意味

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心身統一合氣道の稽古では、「受身(うけみ)」を大切にしています。

受身という言葉は、通常は「受身の態度」「受身に回る」のように使われて、「他から働きかけられる立場」といった受動的な意味、あるいは、「先に攻撃を受けて防ぐ立場になる」という守勢を意味しています。

稽古における「受身」は正反対で、能動的で、攻勢を意味しています。

受身とは「自分の身を護ること」であり、投げられた瞬間に態勢を整え、瞬時に次の動きができることを指します。投げられた瞬間は「終わり」ではなく、次の動作の「始まり」なのです。

したがって、心身統一合氣道の稽古においては、投げたから「勝ち」、投げられたから「負け」ではありません。

投げられたことで身体を強く打ち付けたり、痛めてしまったりしたら、次の動きができなくなったり、遅くなったりします。投げられた直後こそ、最大の「隙」になってしまうのです。

投げる側が統一体ならば、投げられる側も統一体でないといけません。相手が無理な投げ方をしたとしても、統一体で受身を取ることによって、力ずくの技は通用しなくなります。

だからこそ、「心身統一合氣道の五原則」に基づき相手を尊重し、導き投げることの意味を理解できるのです。

 心身統一合氣道の五原則

 一、氣が出ている
 二、相手の心を知る
 三、相手の氣を尊ぶ
 四、相手の立場に立つ
 五、率先窮行(そっせんきゅうこう)

今から20年くらい前に、私が定期的に指導していたアスリートの一人に、実績のあるプロボクサーがいました。

プレッシャーがかかる大事な試合でも力を発揮できるようになるために、「臍下の一点」や「氣の呼吸法」を学びに来ていました。

あるとき、私が受身の意味を説明して、実際に目の前でやってみせると、食い入るような目で見入っていました。

ボクシングでは受身を取る機会がないのではと思い、その理由を尋ねたところ、当時の私には予想もしない答えが返ってきました。

「いつもノックダウンできるのが理想ですが、本当に強い相手にはそうはいきません。ダウンを奪われるとき、相手のパンチのダメージもさることながら、倒れたときの衝撃が致命的なので、ダメージを受けない倒れ方を研究したいのです」

倒すことが目標の競技で、倒れ方を研究する視点がとても印象的でした。その後、この選手は無意識で出来るようになるまで受身を錬って、「確かなもの」を会得したようでした。

日常においても同じことです。

人生はいつも順調なわけではなく、失敗して、倒れてしまうときだってあります。そのとき「どのように倒れるか」が大事です。

受身は心の強さに直結します。

本当の強さとは、絶対に倒れないことでなく、たとえ倒れたとしても、瞬時に態勢を整えて次の行動ができることだからです。倒れたところが、人生の終わりではないのですから。

受身は、順境ではなく、逆境に直面したときにこそ真価を発揮します。

投げることだけでなく、受身も大事な稽古なのです。

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2022/03/01

目先にとらわれない

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私が内弟子修行していたときの話です。

最初の年は、稽古の時間よりも掃除の時間が圧倒的に長く、「掃除するために内弟子になったわけではないのに」と思っていました。

そんな心の状態が「氣」で伝わってしまったのでしょう。あるとき、藤平光一先生に呼び出されて、「毎日、掃除ばかりしているので不満そうだな」と尋ねられました。

私は「そんなことはありません!」と答えましたが、「嘘を言うな」と…。氣の先生に誤魔化しは通じません。私は「なぜ、こんなに掃除ばかりなのか分かりません」と打ち明けました。

藤平光一先生は「それは、目先のことしか見ていないからだ」と答え、内弟子修行においては、たとえ今は意味が分からなかったとしても、「できない」「意味ない」「関係ない」という言葉は使うな、と言いました。

さらに、「同じやるなら、楽しくやる工夫をしなさい」と言われたのです。

それならばと、私は日々、目標を決めて掃除することを始めました。

一つ一つの作業の時間をはかり、段取りを良くして目標時間内で終えよう。掃除の順番を変えて、いちばん能率の良い流れをみつけよう。掃除用具の置き場所を工夫することで、動きの無駄をなくそう。

そういった工夫の積み重ねによって、昨日より今日、今日より明日が、少しずつ良くなっていくことが感覚的に分かりました。嫌々取り組んでいたことで、どれだけ時間を無駄にしたかも自覚を持ちました。

あれから25年が経ち、現在の自分ならば良く分かります。

何事においても、この姿勢があるから成長します。心身統一合氣道の稽古に取り組む基本姿勢、「そのもの」だったのです。

内弟子時代、私は目先ばかりを見ていたので、「いったいこれが何の役に立つのか」と、毎日の掃除の時間が無意味に感じられました。

先のことまで見えていれば、掃除の意味を私は理解できたのかもしれません。しかし、若く未熟な頃は視野が狭く、目先にとらわれやすいので、あの状態では理解はできなかったことでしょう。

先生を信じて実践したからこそ得られたものでした。「先を生きている」からこそ、大事な方向を指し示していたのです。

人間は「目先のこと」にとらわれやすいものです。目先の成果や利益しか頭にないと、部分最適で物事を判断してしまいます。

特に、「人を育てる」ことは時間がかかるので、目先のことばかりになると、人を育てることを疎かにしたり、放棄したりします。

それは国や組織における衰退の表れであり、日本が抱える大きな問題の一つです。これを防ぐには、「目先のことにとらわれない」ための具体的な工夫や対策が必要です。

私にとって、それは「年配者の話を大事に聴く」ことなのです。

現代社会では年配者を「老害」と揶揄する風潮がありますが、とんでもないことです。長い時間をかけて一つ一つ工夫を積み重ねて来た方は、目先のことではなく「何が大事か」を語っています。

20歳のときに50歳の自分は想像できませんし、50歳のときに80歳の自分は想像できません。誰しも「今、この瞬間」を初めて経験しているのですから、本当のところは何も分かっていないはずです。

「一生」というスパンでみて、はじめて分かることがあります。だからこそ、私は90歳を迎える広岡達朗さんのお話を大事にしています。私だけの財産にせずに、『広岡達朗 人生の答え』という本にしました。

この本の企画で、「気持ちの切り替えが下手で、失敗を引きずってしまいます」という広岡さんへの質問がありました。

広岡さんはこのようにお答えになりました。

「それは気持ちの切り替えが下手なのではなく、目先のことに心が向いているのです。失敗したら落ち込むこともある。落ち込んだとしても、また先を見ればよいのです。人生、そこでおしまいではないのだから。」

ああ、なるほど。氣が滞ると目先のことしか見えなくなります。だから、失敗が「人生の終わり」のように感じて立ち直ることができない。先まで見えているから、その失敗は成功の元になるわけです。

気持ちは無理に切り替える必要などなく、まずは氣の滞りを解消して、未来に向けて氣が通えば、自然に心は前向きに変わっていきます。

目先ではなく、先を見るための「氣」の学びなのです。

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2022/02/01

臍下の一点とは何か

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このコラムは中学生の皆さんも読んでいると聞いていますので、奥行きのあることをどうしたら平易に伝えられるか、いつも工夫しています。

その観点では、今回の内容は「難易度が高い」「専門的」と感じるかもしれませんが、とても大事な内容なので整理しておきたいと思います。


「臍下の一点(せいかのいってん)」とは何か。

下腹の力の入らない場所、その無限小の点を「臍下の一点」と言います。「無限小」ということは「形がない」ということです。

心身統一合氣道では、「臍下の一点に心を静める」ことを訓練します。

実は、この訓練が、アスリートが自身の力を最大限に発揮する上で、あるいは、リーダーが物事に動じなくなる上でとても重要なのです。

「臍下丹田」という言葉をご存知の方が多いと思います。

「臍下(せいか)」とはおへその下を指す言葉です。丹田の「田」は、田んぼや油田・塩田など「何かを産出する土地」を意味し、面積を表しています。ゆえに、臍下丹田とは、通常は「下腹の辺り」を指します。

「臍下丹田に力を入れる」と表現されることが多いようです。

「臍下の一点」と「臍下丹田」は別物です。

「臍下の一点」は身体の力みの及ばない場所であり、心を静める場所です。力を入れる場所ではありません。

臍下の一点に心を静めると、外からの影響によって意識が振られなくなり、心身共に、土台が盤石に保たれるようになります。

通常、人間は「前後」「左右」に意識が振られています。

例えば、前に対して備えようとすると、意識が前に振られます。横に対して備えようとすると、今度は意識が横に振られます。

それらが同時に起こるとグラグラして土台を失ってしまうのです。これが「物事に動じる」ことで、力を発揮できなくなる最大の要因です。

臍下の一点には力が入りません。つまり、身体の力みが及ばない場所です。力みが生じる場所だと外からの力・動き・刺激の影響を受けますが、臍下の一点は受けません。

その一点に心を静めることによって意識が振られなくなり、常に盤石な土台を保ち、持っている力を発揮できるようになるのです。

身体が動くときも、臍下の一点が移動することを心がけると、常に「力を発揮できる」「瞬時に対応できる」状態を維持することができます。


日常生活でも意識が振られることがあります。

突発的な問題が生じると、「ああ!大変」とその問題に飛びつきます。つまり、目前のトラブルに心が動じてしまうのです。そんなときに限って別な問題も生じて、まったく動けなくなります。

臍下の一点があれば一つ一つのことに動じず、落ち着いて対処することができます。だからこそ、リーダーにとって必須の訓練なのです。

「臍下の一点」は「重心」と間違えられることがあります。

重心が高いと不安定になり、重心が低いと安定するのは、キャリーバッグの荷物の詰め方でも分かります。重い荷物を高い位置に入れると、キャリーバッグは倒れやすくなりますね。

このことと、混同してしまうのかもしれません。

「臍下の一点」と「重心」は別物です。

「重心」とは、物体の各部に働く重力の合力が作用するとみなされる点で、通常、立った状態の重心は骨盤の位置(身体の内側)にあります。

重心がスムーズに移動することによって、歩くことも、立ち上がることもできます。姿勢や動作によって重心は移動し、胸の辺りにある瞬間もあれば、身体の外側にある瞬間もあります。

重心について研究し、身体の動きを物理的に理解することは有益です。それによって身体をサポートする用具なども進化していきます。

他方で、運動する人が「重心を考えながら動く」のは現実的でありません。スポーツや格闘技で激しく動くときは重心も常に移動しています。そもそも重心は外側から観察して分かるものですから、尚さらです。

「臍下の一点」と「重心」の関係を説明すれば、「臍下の一点に心を静めて動くことで、スムーズに重心移動できる」ということです。

人間は「物」ではなく、心の状態が常に身体の状態に影響を与えているので、重心だけで人間の運動を語ることはできません。

「心が身体を動かす」のですから、スムーズに重心移動できない原因は、心の状態に拠るところも大きいのです。

臍下の一点があれば、あとは身体が無意識のうちに整えてくれます。だからこそ、激しい運動であっても活かせるのです。

ちなみに、様々な媒体で、体重が足裏の外側にかかるのを「外側重心」、つま先にかかるのを「つま先重心」と表現されるのを目にします。

実際には、足裏に身体の重心はありませんので、おそらく「足底圧」のことを述べたいのでしょう。

全身の体重は、足裏全体でバランス良く支えることが大切です。足底圧の分布を調べることで、バランスを知る一つの目安になります。

心身統一合氣道では、「つま先立ち」で基本姿勢を確認します。その目的は「足先に氣が通っているか確認すること」であって、つま先に体重を置くことではありません。

そもそも足裏のどこに体重をかけるかを常に意識していたら、自由に動くことはできません。

一人一人、骨格・筋肉は異なり、身体の状態も違うのですから、自然な立ち方は人それぞれです。足先に氣が通うように訓練すれば、あとは身体が無意識のうちに整えてくれます。

生き物の身体は、本当によく出来ていると思います。


通常、私が道場で指導をするとき、アスリートなどに指導をするとき、「重心」や「足底圧」という言葉を使う機会は、ほとんどありません。

「臍下の一点」さえ身につければ、意識する必要が全くないからです。

心身統一合氣道では、How to say(「良い」「悪い」を指摘する)ではなく、How to do(「どうしたらできるか」を示す)を大事にしています。

どういうメカニズムで機能しているかを調べるのが研究者の役目ならば、どうしたらできるかを具体的に示すのが私たちの役目です。

正しいことには「普遍性」と「再現性」があります。普遍性とは、誰が行ってもできるということ。再現性とは、同じ条件下であれば何度行ってもできるということ。これを基準にお伝えしています。

野球評論家の広岡達朗さんは、「臍下の一点」は総ての運動の基本であり、スポーツ選手やコーチの皆さんは学んでおくべきと言われます。

人間が本来持っている力を発揮できる、具体的な方法だからです。

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2022/01/07

人の影響は双方向

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昨年、東京大学先端科学技術研究センターの教授の西成活裕先生が、「イグ・ノーベル賞」を受賞されました。

イグ・ノーベル賞は、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に与えられる賞で、世界的に注目されています。

その多くが専門雑誌に掲載されるユニークで尖った研究で、1万人超の候補の中から狭き門を突破した「栄誉ある賞」なのです。


西成先生たちの研究チームでは、「歩きスマホをしているときに、なぜ歩行者同士がぶつかりそうになるのか」を調査しました。

横断歩道などで人がすれ違うとき、一部の人が歩きスマホをします。

スマホを見ている歩行者は、周囲への注意が散漫になっているので、人とぶつかりやすくなるのは分かります。

実際は、周囲の人も「歩きスマホしている人」のことを避けられず、ぶつかりやすくなるのです。

つまり、人がすれ違うときは、お互いに予期することによって、ぶつからないようになっていたのです。

このことから連想すると、「車」と「歩行者」の関係においても、運転する人だけが氣をつけていれば良いわけではなさそうです。スマホ歩きをしながら、「きっと車が避けてくれる」という考えでは成り立ちません。

研究結果によれば、一部の人の歩きスマホが歩行者全体の動きに影響するそうです。歩行者一人の注意が散漫になることで、全体が停滞するので、「自分一人くらいは大丈夫」という考えでも成り立ちません。

西成先生は「人間は無意識のうちに見ず知らずの人とも交流して、阿吽の呼吸で行動しているのです」と言われます。

なるほど、それこそ「氣が通う」ことであり、心身統一合氣道の技に通じます。氣が通っているから、相手を導き投げることができます。

心身統一合氣道を熱心に稽古なさっている西成先生には、日頃の技の稽古がこのように見えていたのでしょう。


考えてみれば、「人との関わり」は、総て同じようにも思えます。

「教える人」と「教わる人」においても、一方だけが影響を与えるのではなくて、双方が影響を与え合っています。

「教える人」も、「教わる人」から常に何かを得て変化し続けています。昔から「教えることは学ぶこと」といわれるのも良く分かります。

学校のように先生と生徒が向かい合って学ぶ価値は、お互いが意欲を持って臨むことで影響し合って、大きな効果が得られるところにあるのでしょう。だからこそ、「共に学ぶ姿勢」が大事なのです。


学生時代、私は合氣道部に所属していました。

理系大学の学生(特に新入生)は、コミュニケーションが得意でない人が多いため、何かを言われたときに「反応が薄い」ことがあります。

合氣道部の先輩で、現在、長岡技術科学大学の教授の三浦友史先輩は、事あるごとに「師範がもっと教えたくなってしまうように、ワクワクした感じで稽古しよう!」と新入部員に声をかけていました。

当時、私は「何のために」を理解していませんでしたが、先輩はこの頃から、「学習とは相互作用である」ことを理解していたのでしょう。

お寺の鐘が立派でも、橦木(鐘つき棒)が粗末では良い音は出ません。「反応が薄い」ということは、「得られるものも薄い」ということです。

食事を作ってもらったときもそうですし、何かお世話になったときも同じです。反応が薄いと双方にとってプラスになりません。

積極的に求めることによって、相手の持っている力を引き出せます。

コミュニケーションの本質だな、と思います。


西成先生のお話では、受賞後の取材でこんな質問があったそうです。

 「すごい研究なのは分かりましたが…、オチはどこにあるのですか」

西成先生も笑わせるための研究しているわけではないので、「オチ」などあるはずがありません。「イグノーベル賞」が世の中に正しく理解されるのには、少し時間がかかりそうです。

研究内容に関心のある方は、東京大学のサイトをご覧ください。

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2021/12/01

心から悲しむ

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心身統一合氣道の技の稽古で、最も重要なのは「土台づくり」です。

土台となる姿勢が乱れていては、相手を導き投げることはできません。相手を投げるより前に、まず自分の土台を整えることです。

臍下の一点に心を静めると、心の状態も身体の状態も盤石になります。すると、外からの「力」や「刺激」に対して振り回されなくなります。

一つ一つの物事に、正々堂々と正面から向かい合うことができます。

目の前のことから上手に回避しようとすると、かえって土台を失い、結果的にひどく振り回されることになります。そういう経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

動じない人間になるため、そして、常に冷静な判断ができるために、多くのリーダーが心身統一合氣道で「土台づくり」を学んでいます。

私自身も、日々、稽古を通じて磨いています。

今から10年くらい前の話です。私は両親が年を経てからの子供だったので、30代で両親を見送ることになりました。

父が亡くなった際は本当に悲しく、逝去して翌々日の講習会の指導では立っているのもやっとで、何とか役割を全うしました。さらに、ラスベガスで大きな講習会の指導がありましたが、成功裡に終わりました。

そうこうするうちに悲しみを乗り越え、日常を取り戻していきました。

その二年後に母が亡くなった際は、そこまで悲しみを感じることはなく、逝去した翌日から、いつも通りに指導の現場に立っていました。父が逝去した経験があるので、心が強くなったくらいに考えていました。

特に、気性の激しかった母とは、何かと対立することも多かったので、亡くなったことで「解放された」気持ちもありました。だから、「それほどの悲しみは感じないだろう」と捉えていたのです。


そんな中で、不調は突然訪れました。

突発性難聴、目まい、偏頭痛、胃腸炎、肋間神経痛、喘息など、一つの不調が表れ、それが収まっては次の不調が表れます。指導や講演には穴をあけられないので、氣力だけでやり遂げていました。

そんな不調が半年ほど続きました。

ある晩、どうしても眠りにつくことが出来ず、思い切って起き上がって、そのまま朝まで「氣の呼吸法」をすることにしました。すると、呼吸が静まるほど、忘れていた母との思い出が頭に浮かびます。

「いろいろあった母だけど、大事に育てられたのだな…」

自然に涙が流れてきて、「ああ、自分は本当は悲しかったのだな」と、はじめて母の死を心から悲しむことができました。無意識のうちに私は「悲しくない」と自分を抑圧していたのでした。

その後、あれだけ続いた不調は霧が晴れて散るようになくなりました。

自分を抑圧すると土台を失ってしまうので、心と身体の状態は乱れる。そんなことは日頃の稽古で十分に理解しているはずなのに、母の死に直面して、私は自覚なくそれをやってしまったのです。

土台があるからこそ、向かい合うことができるのです。


一昨日、私にとって大事な方が急逝しました。

心身統一合氣道のよき理解者であり、とてもお世話になりました。数日前まであれだけ元気に活動していたのに、突然の別れでした。お若いのに残念で仕方ありませんが、天命を全うされたのだと思います。

大事な方が亡くなったのだから、いまは心から悲しみたいと思います。そして、前に進んでいきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

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2021/11/01

学び続ける

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いま、ある企画で野球の広岡達朗さんと何度も対談を重ねています。

来年2月9日に90歳を迎える広岡さんは、現在も精力的に活動されていて、「どうしたらその人が持っている力を引き出せるか」を日々、研究し続けていらっしゃいます

そんな広岡さんは、日本のプロ野球の将来を危惧なさっています。

広岡さんのお話によれば、日本のプロ野球選手は現役時代に活躍すると、「成し遂げた」という気持ちになり、勉強しなくなってしまうそうで、指導者としてほとんど学ぶことなく、監督・コーチになるのだそうです。

日本のプロ野球には指導者として学ぶ確固たる仕組みもないそうで、学ばない指導者が育てたら、学ばない選手が育つのも当然とのこと。

目先のことしか見なければ、学ぶことを怠っても影響ないように見えます。しかし、10年後、20年後を見据えれば、学ぶ姿勢を失った人や組織がどうなってしまうのか、気づいたときには取り返しがつかなります。

「近い将来、日本の野球界は間違いなくそのツケを払うことになります」

広岡さんはこう言われますが、この悪循環は決してプロ野球だけではなく、あらゆる分野で生じていることで、日本の未来を決定づける最重要課題の一つだと私は感じました。

日本には「道」のつく学びがあります。本来、「道」がつく学びは一生かけて学び続けることが前提で、目先のことに左右されずに、長期的な視点で一つずつ着実に積み重ねることに重きを置くものです。

手っ取り早く情報が得られる現代だからこそ、一生というスパンでみる「道」が果たす役割があるのだと思います。広岡さんも日々、心身統一合氣道から学ばれていると言われます。

「学び」そのものについても、広岡さんは食事を例えにお話されます。

いくら外食が美味しくても、外食ばかりでは栄養のバランスは偏り、人間は刺激に慣れていくので、そのうち美味しく感じなくなります。

日々の質素な食事が体を作っているのです。質素だからこそ、毎日美味しく食べられるように、作る側も食べる側も様々な工夫が必要です。

美味しく感じているときは唾液が十分に出て、消化の助けになります。唾液は細菌の繁殖を抑え、病気の予防にもなります。

しかし、現代人はスマートフォンや新聞などを見ながら食べ物を口に放り込んだり、良く噛まずに飲み込んだり、「栄養だけ取れれば良い」という心身分離の食事の取り方をしています。

「心が身体を動かす」のですから、食べ物にしっかり心を向けなければ唾液は少なくなるわけで、自らそういう状況を作り出しています。昔から言われる「感謝して頂く」ことには、きちんと意味があるわけです。

天地自然の理に反することをしながら、いざ体調が悪くなると、他力本願で病院に行って医者に治してもらおうとする。それでどうやって健康を維持できるのか、と広岡さんは言われます。

これは食事の取り方に限ったことではなく、「何事においても心を主体的に使うことによって、人間が本来持っている力が発揮されるのです」と広岡さんは言われるのです。

その言葉に私はハッとして、「学びも同じことですね」とお尋ねしました。

日々の地道な稽古によって身につくのですから、楽しんで学ぶことが大切で、ただ教わるのではなく、一つ一つの技にしっかり心を向けて主体的に取り組むことが重要です。

それが食事における唾液と同じ役割を果たすのでしょう。

同じ技を繰り返すとします。目標もなく、何となく身体を動かすだけでは決して向上しません。

同じやるなら、呼吸が乱れないことをテーマにやってみよう。
同じやるなら、最初から最後まで同じペースでやってみよう。
同じやるなら、視線が落ちることがないようにやってみよう。

主体的に取り組むことで、昨日より今日、今日より明日が必ず良くなります。飽きることなく積み重ねることが「稽古」なのです。自ら心を向けて、工夫をすることこそが「学び」だということです。

当たり前のことに聞こえますが、実際はできていない大事なこと。

特に「教わる」ことが当たり前になると、主体的に取り組む姿勢が欠如して、そこには何の工夫も研究も生まれなくなります。

教え方が親切になることは、教え方の工夫や研究においては良いことですが、ともすると学ぶ側の主体性を奪いかねません。「教える側」も学びならば「学ぶ側」も学び、常に学び続けることです。

私自身も一生、学び続けていきたいと思います。

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2021/10/01

息心の行

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今回は先日発売された新著『心と体が自在に使える「気の呼吸」』で、ページ数の関係から割愛したテーマです。


心身統一合氣道の稽古の一つに、50年近く継続している「息心の行(そくしんのぎょう)」というものがあります。

取っ手の付いた鈴を振りながら、ひと呼吸で息を吐き続ける荒行です。鈴を振りながら、「とほかみえみため」という音で発声します。

始めは「」「」「」「」「」「」「」「」という8音、続いて「」「」「み」「み」「め」という5音、最後に「ほかみ」「みため」という2音に変化していきます。

2音になってから1時間程度、鈴を振りながら息を吐き続けます。一日かけて、これを繰り返すこともあります。

私は6歳のときからこの行を続けていますが、最初は本当に辛く、コツを掴んでからは、年々、楽になっていきました。


息心の行では、特に大事なことが二つあります。

一つは、全身に力みなく行うこと。

大きな声を出そうとすると、身体に力みが生じて吐けなくなり、数分もしないうちに苦しくなってしまいます。

「声を発する」ということは「息を吐く」ことであり、全身の力を抜き、全身を一つに用いて息を吐くことによって、ひと呼吸で吐けます。

始めは力みなくできていても、継続するうちに徐々に力が入り、後半になると乱れてしまうことも少なくありません。最初から最後まで、同じように続けられるのが理想の状態です。

もう一つは、全身全霊で行うこと。

息は出せば、自然に入ってくるものです。

長い時間行うからといって、ペース配分を考えて息の出し惜しみをすると、息が十分に入ってこなくなり、すぐに苦しくなってしまうのです。

全身全霊で息を吐いた次の瞬間には自然に息を吸うことができて、ずっと続けることができます。

「出し惜しみをしない」ことを体得するには、最高の機会なのです。


息心の行を学ぶには、まずは氣の呼吸法を実践する必要があります。

氣の呼吸法で、全身に力みがない状態で吐けるようになることで、吐く息が最後に自然に静まるようになります。すると、ひと息で吐いても、最後に一瞬で静まるようになります。

これが身につくと、発声、例えば号令や気合いが変わってきます。声を発した瞬間に音が拡がり、最後が静まっていくようになります。すると、遠くにいる人にもクリアに伝わる声になっていくのです。

さらに、身体の負担が少なくなります。私は一日に長時間講演するときがあり、声を発し続けるわけですが、幸いなことに、この訓練のお陰で喉が潰れることがありません。


ひと呼吸で吐くことは、パフォーマンスにも直結しています。

動作と呼吸が自然に一致するとき、私たちは力を発揮することができます。基本的に、私たちは動く瞬間は自然に息を吐いています。

ゆえに、息を吐くときに力みがあると、動作にも影響を与えてしまい、パフォーマンスを発揮できなくなってしまいます。

息心の行で力みなくひと呼吸で吐けるようになることが重要で、アスリートや俳優、伝統芸能の皆さんにも、よく体験いただきます。

新型コロナウイルスの感染拡大防止で、現在はなかなか一緒に行えませんが、感染が収束したら、息心の行をぜひ再開したいと思います。

「息を吐く」ことは、本当に奥が深いと思います。

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2021/09/01

氣合い

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私は心身統一合氣道の継承者です。

継承者として指名される前に、先代の藤平光一先生から幾つか課題を出されました。その最後の課題が「氣合い」でした。

当時、藤平光一先生の生家の代官屋敷には広い竹林がありました。そこに木剣を持っていき、剣を構えた状態で氣合いをかけるのです。

一週間に一度、この試験がありました。「イエイ!」という音で氣合いをかける、ただそれだけなのですが、これが最も難しく、半年かかっても許しが出ませんでした。

ただ大声を出すだけでは、屋敷の中にいる藤平光一先生に届きません。音が散ってしまうような感覚で、喉もすぐに潰れてしまいます。

何度も声を枯らしてしまう私に、藤平光一先生はこう声をかけました。

「お前はただ大声を張り上げている。氣合いとは、呼吸なのだよ」


あまりに出来ない自分に落胆し、あるとき気分転換で外に出ました。

空気が澄んだ冬の夜でした。辺り一帯には人も建物もありません。気温が低いと音がよく響くと言いますが、外に出て氣の呼吸法をしていると、遠くから動物たちの鳴き声が聞こえます。

呼吸が静まっていき、心地良く息を吐けるようになったときに、ふと出来そうな氣がして、「イエイ!」と気合いをかけてみました。すると、今まででは考えられないくらい、音が拡がっていきます。

「ああ、これだ!」

「声を発する」ということは「息を吐く」ということ。大声を出そうとするときは、身体に力みが生じ、呼吸が浅くなる。「声」の質は「呼吸」の質、だから深い呼吸を目指せば良いのだ!

それ以来、気合いをかけるよりも、氣の呼吸法をしっかり実践し、「身体のどこにも力みがない状態で息を吐く」訓練を始めました。

無限小に静まった状態から音を発して、また無限小に静まった状態に戻っていく。始めも、終わりも、波立って静まらないときは、上手くできないことも身体で理解しました。

そこから1ヶ月ほど経ったある日、いつも通りに竹林で気合いをかけた後、屋敷にいる藤平光一先生の元に戻ると、「それで良い。今日はここまでしっかり届いていた」と無事に合格となりました。

最後の課題を達成した瞬間でした。


それから様々な変化が表れました。

道場では号令が遠くまで響くようになり、よく伝わる指導になりました。人間は全身で音を感じていると言われていますが、発声が変わることで、明らかに周囲に与える影響が変化しました。

不思議なことに、英語の会話でも、よく伝わるようになりました。講演などで一日中、話をしていても、喉はつぶれなくなりました。交渉事も以前よりもスムーズに運ぶようになりました。

発声によって様々なことが変わっていったのです。

「氣」の観点でいえば、氣が通っていると、小さな声でも遠くに伝わります。反対に、氣が滞っていると、大きな声でも近くに伝わりません。

リラックスすることによって周囲に「氣」が通うのですから、どこにも力みなく息を吐くことが、最短で身につける方法だったのでしょう。


この経験から、舞台関係の皆さんによく「氣」を指導させて頂きます。

氣合いや号令をかけると、皆さん、発声にたいへん興味を持ちます。勿論、私は専門的に発声を学んだわけではありませんが、どうやら「声を発する」という土台の部分がそこにはあるようです。

舞台の役者さんも、小さな声でも本当に遠くまで届く人がいます。どれほどの訓練を積み重ねて来たのかと、私自身も積み重ねて来たものがあるので、いつも感動を覚えます。

先日、藤原竜也さん主演の舞台「ムサシ」を観劇して来ました。初演から12年間、この舞台は海を超えてロンドンやニューヨークでも上演され、辛口で知られる英米の劇評家や観客から大絶賛されました。

当時27歳だった藤原さんが35歳の宮本武蔵を演じるにあたって、人としての奥行きを表現するために、料理でいうところの「隠し味」として、心身統一合氣道の門を叩きました。

いま39歳となった藤原さんが演じる宮本武蔵は、それはもう圧巻でした。心から素晴らしいと感じた舞台でした。

氣の呼吸法で得られることは、様々なことに通じているようです。

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