2019/05/07

滞りを持たない

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東京大学先端科学技術研究センター西成活裕教授は「渋滞学」という学問を確立したことで有名です。

10年以上にわたって取り組んで来た研究内容をまとめた学問で、「渋滞学」という名称は、西成先生が独自に命名されたものです。

現在では道路の渋滞に限らず、社会生活の中の様々な流れで起こる渋滞について、国や日本を代表する企業と共同研究をなさっています。約3年前から心身統一合氣道を熱心に稽古なさっています。

そんな西成先生、10連休となったこのゴールデンウィーク中は、連日、渋滞の解説のためにテレビ各局から引っ張りだこでした。

番組で西成先生が言われていましたが、連休中の渋滞は、車の数が多すぎることによって生じているので、混む時間帯を避けるしかないようです。しかし、そこまで車が多くない場合に起こる自然渋滞については、私たちのちょっとした心がけで回避することが出来ます。

「渋滞」は、最初の一台のブレーキ(減速)に端を発しています。後ろに続く車が十分な車間距離を取っていないとブレーキが連鎖し、それがさらに後方の車に伝わって渋滞となっていきます。

特に、勾配4%程度の緩やかな上り坂だとドライバーが氣づかず、無意識のうちに車が減速して、さらに車間距離が不十分だと、後続の車がブレーキを踏むことになり渋滞が起こるとのこと。

どうやら「無意識」と「車間距離」がキーワードのようです。「無意識」はともかく、「車間距離」については私たちの心がけ次第でどのようにでもなるわけですから、やらない理由はありません。

ある番組では、上空から渋滞の先頭を撮影していました。それは、高速道路の入口で車が本線に合流する場所で、三車線の流れが二車線に狭まってしまうことで生じていました。とても興味深い映像でした。

さて、「渋滞」という言葉を、「滞り」に置き換えて考えてみましょう。

どれだけ長い渋滞にも、その始まり(原因)があるように、「氣」の滞りにもその始まりがあります。

大きな氣の滞りがいきなり生じることはほとんどありません。最初はちょっとしたことで氣が滞り、それが連鎖することで、より大きな滞りに育っていくのです。

そのため、小さな滞りのうちに解消することが重要です。勿論、滞りそのものが生じなければ良いわけですが、様々な人間関係で生きる現代においては現実的ではありません。

一つのことが上手くいかないと、そこに氣が滞ってしまって、心が使えなくなってしまうことがあります。

指導先の学校で、ある学生と稽古していたときのことです。この学生には、仲良く一緒に稽古している友だちがいました。あるとき、その友だちから自分が氣にしていることを言われ、とても嫌な氣持ちになってしまったようでした。

友だちのひと言によって、氣が滞ってしまったのでしょう。

すると、氣が滞った状態で友だちと接しているので、今度は、その友だちの言うこと、やること総てが氣になってしまって、「もう一緒に稽古したくない」と言うのです。

私は直接この話題には触れず、稽古を始めることにしました。稽古そのものが「氣を出す」ことですから、それによって、氣の滞りが解消することが少なくないからです。

稽古の後、この学生はバツが悪そうに私のところにやって来て、ひと言、「氣が滞っていました」と言いました。稽古して氣が出たことで、自分の状態を認識できたのでしょう。

私は「稽古で氣の滞りが解消したのであれば良かったですが、滞りの原因を放置してしまったら、またすぐに戻ってしまいます。どうしたら良いと思いますか」とその学生に尋ねてみました。

学生は考えた末、自分が傷ついた事実を友だちに冷静に伝えました。それを聞いた友だちはとても驚いて、すぐにこの学生に謝りました。その友だちとしても自分の意図とは違って伝わっていたようでした。

氣の滞りが解消してお互いにスッキリしたのか、その後は何事もなかったかのように一緒に稽古するようになりました。この二人にとっては、大事な人生経験となったようです。

人間関係においてちょっとした氣の滞りを持つと、どんどん大きな氣の滞りに育っていきます。そして氣が滞った状態で物事にあたると、他のことまで上手くいかなくなります。これは恐ろしいことです。

だからこそ、氣の滞りは、一瞬たりとも持つべきではありません。特に、家族・友人・仕事のパートナーなど、身近な人だからこそ、ちょっとした氣の滞りが生じた瞬間に対処することが重要なのです。

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2019/04/01

天地を相手に生きる

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藤平光一先生は「天地を相手に生きる」ことを大切に説きました。

私たちは、自分自身の経験に基づき、様々な価値観を持っています。勿論、それは必要なものではありますが、自分の「物差し」なので、物差しそのものがズレてしまうと大変なことになります。

しかも、その「ズレ」は日々、少しずつ進んでいくものです。

いちどにたくさんズレれば、その変化に氣づくことは容易です。しかし、日々少しずつ進んでいくズレは氣づくことが難しく、突然、大きな不具合が生じて、はじめて自覚することになります。

元々は謙虚であった人が、業績を上げるうちに傲慢になっていって、周囲の心ある人が去っていく、ということがあります。

成功を繰り返すうちに、過去に縛られてワンパターンに陥ったり、慢心が生じたりして、致命的な失敗をすることもあります。

最初は「これはいけないことだ」と認識していたとしても、「このくらいは許されるだろう」と自分から許容範囲を広げていき、最後はとんでもない結果になってしまうこともあります。

いずれも、自分の物差しが少しずつズレていくことで生じるもので、自分の物差しをあてにしてはいけない、ということです。

これを防ぐのが「天地を相手に生きる」ことです。

天地とは「天」と「地」ではなく、「天地自然」を指しています。そして「天地を相手に生きる」とは、自分の物差しを基準とせず、天地自然の理を基準に置いて生きることを意味しています。

この度の新刊でも、堀威夫さんは「座標軸を常にゼロに置く」とか、「自分ではなく、お天道様が決めている」といった表現で、自分の物差しではかる危険性について触れていらっしゃいます。

先週あるご縁で、二日間ほど自然の中で過ごす機会がありました。

パソコンやスマートフォンを手放し、ただ自然を感じて過ごす時間は、余分な考えが削ぎ落とされ、大事なものだけが残る感覚がありました。複雑に考え過ぎていたものが紐解かれていくような感じでした。

そして、もっとも大きい氣づきは、自然の中から現実社会に戻ってから訪れたように思います。

私自身もいつの間にか自分の物差しで物事をみるようになって、少しずつズレてきていたようです。何か一つのことに対してではなく、総てのことに対して、だからです。

心身統一合氣道の稽古は、天地自然の理に則して行うものです。自然な姿勢、自然な動きは、自然な心の状態から生まれます。堀さんも、自然体を身に付けるために稽古に通っていると言われます。

私自身も、その基本に立ち返りたいと思います。

「氣」の新書シリーズには毎回、各分野の方との対談があるため、出来上がった本を読み直してみると、自分自身も学ぶことばかりです。今回の堀さんとの対談は、本当に奥行きのあるものになりました。

心身統一合氣道を稽古なさっている皆さん、心身統一合氣道会に関心のある皆さんには、ぜひお読み頂きたいと思います。

心身統一合氣道会は新年度を迎えました。皆様と共に稽古に励んで参ります。どうぞ宜しくお願いいたします。

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2019/03/01

意識する、ということ

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自分が自然にしていること、出来ていることを言葉にすることで、パフォーマンスが悪くなることがあります。それまで無意識で出来ていたことを「意識」することによって、同じように出来なくなってしまうのです。

私はこれを7年前に経験しました。次世代の指導者を集中的に育成するため、3年間ほど特別な機会を設け、それぞれの指導者と頻繁に接していたときのことです。

「氣」や「心」のように、本当に大事なものには「形」がありません。
その大事なものを伝えるために、私自身で言葉になっていないこと、感覚的に会得していること、自分が無意識に出来ていることなどを、一つずつ整理して言葉にしていく必要がありました。

「変化」は間もなく表れました。

言葉にしたことによって、それまでと同じようには出来なくなっていたのです。「無意識」の領域から「意識」の領域に持ち出してしまったのでしょう。

すっかり不調に陥ってしまいました。それでも育成は続けなければいけませんので、ひどい不調に耐えながら、これからの指導者を育てる「基礎」を作り上げました。このときの苦しさは経験したことのないものでした。

さいわいなことに、言葉にしたことをあらためて訓練することにより、私の不調は解消され、また元に戻っていきました。おそらく「意識」の領域から「無意識」の領域に戻ったのでしょう。

こういったことは、日々の稽古でも起きています。

例えば、「バランスを取る」という意識がそうです。「自然な姿勢には自然な安定がある」のですから、本来であれば、バランスは意識して「取る」のではなく、自然に「取れる」はずです。
しかし、意識してバランスを取ってしまうと逆に乱してしまうのです。

本当にバランスが取れているときは、特別な感覚はないものです。もし、自分が「バランスを取っている」と意識しているとしたら、それは本物ではありません。実際のところ、バランスが乱れているから意識するのです。

日頃から、つま先立ちをして足先まで氣が通うように訓練しておくと、それが習慣になって、いつの間にか自然にバランスが取れています。氣がついたら「よろめかなくなっていた」「転ばなくなっていた」
「疲れなくなっていた」と感じるのであれば本物です。

これは姿勢の話だけではなく、物事におけるバランス感覚も同じです。バランス感覚が良い人は、意識してバランスを取ってはいないのです。極めて自然なことなので、バランスを取っている自覚もありません。

トップアスリートを指導していると、「なぜそれを出来るのか」をアスリート自身がまったく言葉に出来ないことがあります。

私自身が経験から学んだ通り、自然に出来ていることを意識させると、パフォーマンスはかえって悪くなってしまいます。そのため、指導の際には細心の注意を払い、「無意識」の領域のものは「無意識」のまま伝わるような工夫をしています。

私たちは、まずは「無意識」でしていることを「意識」して訓練します。しかし、これだけでは「身についた」ことにはなりません。「意識」して出来ることを「無意識」で出来るように訓練が必要なのです。

「稽古」とは、私はこのプロセスを繰り返すことだと捉えています。

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2019/02/01

角度を変えてみる

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私は子どもの頃、12年ほどピアノに触れる機会がありました。藤平光一先生のお弟子さんにピアニストがいらして、直に教えて頂いていました。私には勿体ない先生で、不良生徒でしたが、そのときに教わったことが今になってようやく理解出来るようになってきました。

例えば「心を静める」こと。レッスンの前にピアノを前に座り、心を静めることを徹底されます。「心が身体を動かす」のですから、心の状態は音にも影響していて、心の状態が乱れるとピアノの音も乱れます。

心が静まっていないと、自分の奏でる音を聴くことも出来ません。心が静まるのを確認してからはじめて、鍵盤に触れることが許されます。この訓練のお陰で、何かを行うときに心の状態をみる習慣が出来ました。それは心身統一合氣道の稽古に直結していました。

例えば「氣を切らない」こと。一つの音の終わりは、次の音の始まりです。しかし、一音一音で氣が切れると、旋律が乱れてしまうのです。音のない瞬間も氣が切れることはなく、それも音楽の一部です。「間(ま)」についても、この頃に感覚が磨かれました。

私は性格的に氣を切りやすかったようで、その度に注意を受けましたこのお陰で、物事の終わりに氣を切らない習慣が出来ました。「一つの技の終わりは次の技の始まり」という感覚もそこで得ました。

例えば「無限小に静まる」こと。一つの音は、ひとたび発せられると、無限小に静まっていきます。ひとことで言えば「静止状態」に帰するのです。この静止がないと、落ち着きがなく上擦った演奏になります。これは当時はまったく理解出来ず、今になってようやく分かって来ました。

一つの動作の後が静止することで、次の動作に繋がっています。「静」から「動」が生まれ、「動」から「静」に戻っていく。技における「静動一致」の理解のルーツは、おそらくここにあったのだと思います。

「合氣道の後継者を育成するのに、なぜピアノを学ばせるのですか」と藤平光一先生に質問した人がいたそうです。当然の疑問でしょう。

正面からみているだけでは分からないことも、角度を変えてみることで、はじめて分かることがあります。これは、異なるものを自分なりに混ぜる姿勢では絶対に得られません。異なるものに共通する土台を理解する姿勢だからこそ得られます。

藤平光一先生は、私にそれをさせたかったのでしょう。また、音楽における私の先生はその目的に最適の方であったのでしょう。

ピアノには、もう20年近く触れていません。とてもではないですが、どなたかに聴いて頂く状態にはありません。それでも最近では、周囲に誰もいないときに本部宿泊研修施設にあるグランドピアノに触れています。今では、音を聴いて自分の心の状態がよく分かります。

以下は余談です。

そんな訳で、日頃からピアノ楽曲をよく聴きます。

今であれば、20年前に録音された横山幸雄さんの超絶技巧練習曲集(リスト)を、あらためて聴き込んでいます。S.139第8番「狩り」は何度聴いたか分かりません。

ポリーニ・コレクション(ショパン)もそうです。マウリツィオ・ポリーニによるエチュード(練習曲)やバラードを良く聴きます。バラード第4番Op.52は特にそうです。

クリスティアン・ツィマーマン演奏によるピアノ協奏曲(ショパン)も好んで聴きます。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮による1978年・1979年録音版です。

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2019/01/08

洗心の行

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「洗心の行」は寒中で水をかぶる行(ぎょう)です。

元々は先代の藤平光一宗主が、新しい一年を迎えるタイミングで、生家である代官屋敷の堀に入っていたのが始まりです。それをみていた弟子が一人、また一人と「自分もやりたい」と増え、堀に入りきらなくなって、場所を鬼怒川に変えることになりました。

当時、最も多い年で400名を越える皆さんが鬼怒川に入りました。壮観な画のためか、毎年、テレビのニュースにもなっていました。現在では、鬼怒川の環境が洗心の行に適さなくなったことから、栃木にある本部宿泊研修施設内にある「洗心の行場」で行っています。

鬼怒川時代をご存知の方は「川の方が寒かった」と言われますが、両方の経験があり、現在も行を続けている私の実感では、どちらも変わりはありません。

私が初めて洗心の行に参加したのは7歳のときでした。当時はまだ親子の関係であった藤平光一宗主に手を引かれて、「今日はお父さんと良いところに行くんだよ」と連れて行かれたのが、氷点下5度の鬼怒川でした...。

やりたくないと駄々をこねている間は寒くて仕方なかったものが、やるしかないと心を決めた瞬間に感じ方が変わります。環境は何一つ変わらないのに、耐えられない寒さでなくなるのです。風邪を引くこともまったくありませんでした。とても不思議な体験でした。

今にして思えば、まさに「心が身体を動かす」であり、心の状態が身体の状態にどれだけ影響を与えているかを学んだのでしょう。このときの体験が、私の土台を作ったのは間違いありません。

洗心の行の目的は二つあります。

一つは「心を決める」こと。ひとたび心を決めれば、困難に見えることも乗り越えられる。それを根性論ではなく、身体で体得することです。心が決まらないと寒くて一瞬たりともいられませんが、心が決まれば、寒さを正面から受け入れられるようになります。それを理解したら、日常生活での心の使い方に活かすことです。

もう一つは「過去の良いことも悪いことも水に流す」こと。人間は何事にもとらわれやすいもの。ひとたび心がとらわれて、心の停止状態になってしまえば、目の前のことに心をまったく使えなくなります。

実際には、悪いことにとらわれる以上に、過去の成功や実績など、良いことにとらわれる方が多いものです。だからこそ、悪いことだけでなく、良いことも水に流します。新たな氣持ちで新年を迎えることです。

今年も氷点下のなか、100名以上の皆さんと洗心の行を全うしました(定員が100名です)。やるまでは「辛くて仕方なかった」という人でも、やり遂げてみると、「また来年やりたい」となるのが面白いところです。

寒中に水をかぶるからといって、人間的に偉いわけではありません。洗心の行で会得したことを、今度は日常に活かすことが大切です。

「日々、行う」ことこそ「行」なのですから。

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2018/09/03

心を決める

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藤平光一宗主は私の師匠であり、父でもあります。

ひとたび「師匠と弟子」という関係になると、「親と子」ではなくなり、「親父」や「お父さん」と呼ぶことは全くなくなります。振り返ってみると、親子関係であったことを懐かしくさえ感じます。

親子時代のことで、ふと思い出したことがあります。父は「心を決める」ということを大事にしていました。心を決めずに物事を始めてしまうと、そこには必ず迷いが生じます。一つのことをやり遂げるには、まずは心を決めることが不可欠です。

小学校低学年まで、私はいわゆる「虚弱児」でした。原因不明の熱によって、学校を3ヶ月間も休んだこともありました。そんな私に、父は、毎朝風呂場で水をかぶるように勧めたのです。「夏の暑い日から始めて、少なくとも一年間は続けなさい」と。

当時、小学4年生であった私は、こういわれて始めることにしました。始めのうちは真夏の水浴びなので、氣持ちよくかぶっていましたが、秋頃から徐々に状況が変わっていきます。冬になると、朝を迎えるのが憂鬱で仕方がなくなりました。

そんな私に、父は「心を決める」という話をしました。「水をかぶる」「水をかぶらない」という選択肢が自分にあると、そこに迷いが生じて辛くなってしまう。「水をかぶる」と心を決めて行いなさい、というのです。

はじめは、「根性論」をいわれているように感じていましたが、なるほど「何とかしてさぼれないか」と迷いながら水をかぶると、服を脱ぐだけで寒氣がして、水もとてつもなく冷たく感じます。

ところが、「水をかぶらない」という選択肢(可能性)を捨てて、水をかぶる前提で行うと、思うほど辛くありません。前の日の晩から、すでに心が決まっている感じがあるのです。

その違いを身体で会得した私は、自発的に取り組むようになり、「心を決める」ということを徐々に覚えていったのでした。

そうこうしているうち、一年が経って、また夏を迎えました。その頃には「心を決める」ことがかなり習慣づいていました。いきなり止めてしまうのも、何だか寂しいような感じもあって、結局、中学に進学するまでさらに二年続けることにしました。

このときの体験が「心を決める」という私の基本姿勢をつくることになりました。

私の場合は「水をかぶる」という方法が最も適していたと思いますが、実際のところは他のことでも良いのでしょう。「心を決める」習慣をつけることが目的なのですから。

「心を決める」ことは、これから社会に出る皆さんには特に重要です。

社会人として一つの選択肢を選ぶ以上は、いったん他の選択肢は捨て、心を決めて臨むことです。しかし、他の選択肢を捨てられない人が多いのです。すると、苦しいことに直面し「自分はこんなことをしていて良いのか」「自分にはもっと他に道があるのではないか」と迷い始めます。この迷いが生じると、もはや困難を乗り越えることは出来ません。

すべきことを総てした上で、自分が歩む道ではないと確信するならば、そのときは別の道を選べば良いだけです。それもまた「心を決める」ことだからです。

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2018/08/01

静止と停止

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藤平信一です。

相手が力いっぱい自分の手首をにぎって、押さえるとしましょう。 そうすると、持たれたところ(=手首)に意識を取られてしまい、持たれたところから動こうとして、動けなくなってしまいます。

しかし、冷静になってみれば、持たれているのは手首だけで、 手首以外は自由に動けるはずです。 それにも関わらず、全身が動けなくなってしまうわけです。

これは、心が一つのことにとらわれてしまった結果、 他のことに心をまったく使えなくなる最たる例です。 藤平光一宗主は、これを心の「停止」状態と定義しました。

この停止状態は日常生活でも頻繁に生じています。 トラブルなど自分が望まない出来事が生じると、それにとらわれ、 他のことにまったく心が向かなくなります。

本来すべきことに心を使えなくなってしまうのです。 誰かに悪口を言われると、一日中それが氣になってしまって、 何も手がつかなくなるという人もいます。 ひとたび心が停止すると、自由に使えなくなるということです。

私たちは、一日のなかでも何度もこの停止状態に陥っています。 しかし、たいていは自覚がないので全く氣づいていません。

「停止」と対になる状態が「静止」です。 静止とは心が静まっていて、一つのことにとらわれることなく、 いつでも自由に心を使える状態を指します。

厄介なのは、一見すると「停止」と「静止」はよく似ているので、 はじめはほとんど見分けがつかないことです。 そこで、道場での技の稽古でその違いを感じることが重要なのです。

冒頭の「手首をつかむ」例に戻りましょう。

臍下の一点に心を静めて、相手に力いっぱい手首を持たせます。すると、今度は手首に意識を取られることがなくなっています。

手首以外は自由に動けることが感覚的にも分かるので、 動けるところから動けば、相手を導き投げることが出来ます。

日常でいえば、仮に生じているトラブルはすぐに解決しなくても、 他にも出来ることはたくさんある、ということです。 出来ることから行えば、物事を着実に進めていくことが出来ます。トラブルに心が奪われてしまうと何も手につかなくなります。

心が静まった状態で物事に臨む「準備」「備え」が最も重要であり、 それによって、一つのことに心がとらわれなくなります。 私も日々、「静止と停止」をテーマに自分の心の状態をみています。

上記の例では、心が乱れていると相手に「持たれる」ことになり、 心が静まっていると相手に「持たせる」という感覚が生じます。 「持たれる」「持たせる」は一字違いでも結果は天と地ほど違います。

人前に出るときの「見る」「見られる」も同じことです。

臍下の一点に心を静めることは、心を停止させない具体的方法です。

ご一緒に日常生活で訓練して参りましょう。

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2018/06/01

何が問題か

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藤平信一です。

今回はビジネスのフィールドの話です。

いま心身統一合氣道の学びは、日本を代表する大きな企業の幹部育成の研修で、本格的に取り入れられています。バブル景氣の頃は、めずらしさで取り入れる会社が多かったようですが、現在では、明確な目的を持ち、具体的な成果を求めて導入されています。

「形のあるもの」ではなく、「形のないもの」にフォーカスすることが、激動の時代を乗り越えていくための確かな力になっているようです。

ある「問題」が生じたとしましょう。すべき努力をしているにも関わらず、問題が解決しないとしましょう。最大の原因はいったい何でしょうか。

多くの人は、「知識の不足」「スキルの不足」「経験の不足」など、自分に不足しているものを原因として挙げるかもしれません。それらは問題が解決しない一つの要素ではありますが、最大の原因は「何が問題か」を正しく理解していないことにあります。

「何が問題か」を間違えると、どれだけ努力しても解決はしません。そして、真の問題は、データなど「形のあるもの」にあるのではなく、氣のように「形のないもの」にあることが多いのです。

例えば、こちらが伝えたいことが正しく伝わらないとしましょう。勿論、それは「伝える内容」や「伝え方」にも課題があるのですが、最大の原因は「氣が通っていないこと」にあります。

この場合、「氣が通う=信頼関係の構築」と置き換えると分かりやすいかもしれません。信頼関係が十分に構築されていなかったり、ヒビがあったりすると、「氣が通っていない状態」になっています。その状態でいくら相手に伝えようとしても、正しく伝わりません。

氣が通っている状態、すなわち信頼関係が構築されているときは、伝えたい内容は正しく伝わっていきます。つまり、「何を伝えよう」「どのように伝えよう」という以前に、どうしたら相手と氣が通うかに取り組むことが重要なのです。

「伝える内容」や「伝えたいという思い」で精一杯になっていると、氣が通っているかをみることなく、そのまま突き進んでしまいます。その結果、うまくいかず、「伝える内容が悪かったのではないか」「伝え方が悪かったのではないか」と振り返るわけです。

しかし、それは真の問題ではありません。「何が問題か」を捉え間違っているので問題が解決しないのです。そして、同じことを形を変えて何度でも繰り返すことになります。

まずは「氣が通う」「氣が滞る」というフレームワークを持つこと。次に、それらを正しく感じ取れるように具体的な訓練をすることです。臍下の一点に心を静めると「氣が通う状態」「氣が滞る状態」、どちらも正しくキャッチ出来るようになります。

「伝えてはいけないときに相手に伝えてしまう」「伝えなければいけないときに相手に伝えられない」といったタイミングに関する判断ミスも少なくなります。特に、コミュニケーション、ネゴシエーションには不可欠です。

これは心身統一合氣道の稽古そのものであり、心が静まっているから、相手の氣配をキャッチして、適切なタイミングで動けるのと同じです。どのタイミングで動くかと考えた瞬間に分からなくなってしまいます。

禅の言葉に「そつ啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります(そつ=口+卒)。「そつ」とは、卵の中の雛が内側から殻をつつく音。「啄」とは、卵の変化に氣がついた親鳥が外側から殻をつつく音。

同時に行われることで、雛はスムーズに殻を破ることが出来ます。早くても駄目、遅くても駄目。どちらも上手くいきません。相手の状態をよくみて、「その時」を逃さないことを説いた言葉です。

それには「氣が通っている」という土台が必要。多くの人を導く立場にあるリーダーには必須の訓練であり、そのため、多くの会社の幹部研修で取り入れられています。

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2018/04/02

固まらない

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藤平信一です。

大学の一般教養の授業で学生と関わるようになって20年になります。10年前、もしくは20年前の学生と、現在の学生を比べてみると、確かに、感じ方・捉え方・考え方には変化があるように感じます。

ただ、良く言われる「昔の学生と比べて今の学生は」などといった、今の学生だけが悪いという考えを私は持っていません。昔の学生が今の学生より優れていたこともあり、その逆もあります。

大事なことは、性質の変化を正しく認識することだと考えています。それによって適切に導いていくことが出来ます。

この何年かの変化として、「自分の想定しないこと」が起こったとき、固まってしまう学生が増えているように感じます。

特に、注意を受けたり、指摘を受けたり、叱責を受けたりすると、固まってしまい何も反応出来なくなってしまいます。自分に非があるのが分かっていても、謝罪の言葉も出て来ません。

多くの場合、どう答えて良いか分からないために固まってしまい、それが相手には「煮え切らない態度」「反抗的な態度」に映るので、相手をイライラさせて状況を悪化させています。

固まる原因は様々ですが、病氣や過去のトラウマ等でない限りは、想定外のことに接して「氣」が滞ることが原因です。そして、それは日々の稽古によって解決することが出来ます。

心身統一合氣道の稽古で例えれば、相手が突然かかって来たとき、どう動けば良いかを考えて、固まってしまうのと同じことです。今まさに、かかって来る相手に「待った!」は通用しません。何らかの対応をしなければ身を守ることは出来ません。

相手がこうかかって来たら、こう投げようという想定があると、相手が自分の想定外の動きをすると全く反応出来なくなります。

また、相手がかかって来たとき、どの技で投げようかと考えても、全く反応が出来なくなります。

どちらも「氣」が滞ってしまうのです。

心を静め、視野を広く持ち、相手の状態を感じ取ることで、氣を滞らせることなく適切に動くことが出来ます。

何かあるたびに固まってしまうお子さんであっても、稽古によって訓練することが出来ます。非常時にお子さんが自分の身を守る上でも、最も重要なことです。

話をコミュニケーションに戻しましょう。

想定外のことが生じると固まってしまう原因の一つには、「自分がどのように対応したら良いのか」を考えることにあります。どのように対応するのが正解か、を頭で考え始めてしまうのです。その瞬間に「氣」が滞ります。

「怒られたくない」「恥をかきたくない」という思いが強すぎると、固まる傾向が強くなるようです。

これは考え方を変えるだけでは解決せず、実際に身体を使って、「氣」が滞らないように訓練することが不可欠です。

道場の稽古で固まらないことを会得したら、今度は日常で、コミュニケーションにおいて同じことを訓練します。

相手が何かアクションを起こしているのに、無反応な人がいますが、この習慣はいざというときに固まってしまうことに繋がっています。

レスポンスをしない人、自分のタイミングでしかレスポンスしない人、「はい」という返事しかしない人などは要注意です。

「固まらない」ことは、私たちの稽古における重要なテーマの一つです。是非、日々の稽古で磨いて頂きたいと思います。

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2018/03/01

小さな滞りが大きな滞りを生む

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藤平信一です。

内弟子時代、掃除に明け暮れたことが習慣になったようで、私は今でもよく掃除をします。

ホコリというものは面白いもので、小まめに掃除しているとひどくは汚れません。計画的に掃除していれば、大掃除をする必要もありません。

しかし、大した汚れではないと少しのホコリを放置してしまうと、それがさらに他の汚れを吸着し、みるみるうちに汚れていきます。

汚れきってしまった状態から掃除するのは、氣力と体力を必要とします。ポイントは、ちょっとの汚れのときに掃除をすることです。

実はこれ、「氣」の滞りにおいても同じことが言えます。始めにちょっとした「氣」の滞りが生じ、それを放置することで、その後の出来事に繋がって、大きな滞りになっていくのです。
以前にこんなことがありました。

日々、仕事をしているうちに、だんだんやる氣がなくなって来て、完全に氣が滞ってしまった人がいました。いよいよどうしようもなくなって私に相談したようです。

本人に原因を尋ねても、思い当たることが全くないようです。2ヶ月くらい前から調子を落としているとのこと。その頃にどんなことがあったか、詳細に思い出して頂くことにしました。しばらく時間をかけて、本人が「あっ!」と思い出しました。

信頼する後輩が自分の悪口を言っていると、ひとづてに聞き、事実か確認することも出来ずに数日間、悶々としていた時期があったそうです。その後、仕事が忙しくなって、そのことを忘れていたのでした。

話をよく聞くうちに、私はこの出来事こそ現在の不調のきっかけではないかと感じました。最初はちょっとした氣の滞りでも、その状態のまま先に進むと、そこでも新たな氣の滞りを生じさせるからです。

それはちょうど、わずかなホコリが他のホコリを吸着していき、加速度的に汚れていくのに良く似ています。大切なのは、ちょっとしたホコリのうちに取り除くことです。

私がこう指摘すると、この方はすぐに後輩と話をする機会を設け、行き違いによる誤解であることが判明しました。そして、たったこれだけのことで不調から立ち直ったのでした。

仮に、悪口が「誤解」ではなく「事実」であったとしても、相手に直接確認さえ出来れば、相手の真意を知ることで、氣の滞りが解消するのは良くあることです。

しかし、これは決して簡単なことではありません。理由は二つあります。一つは、氣が滞っているとき、滞っている自覚がないこと。もう一つは、氣の滞りの原因の大半は、実は小さなことだからです。

はじめはちょっとした出来事がきっかけで、しかもそれを忘れてしまうので、原因不明の不調に陥りやすいのです。これをどう解決するかは、私たちの人生にとっての大きなテーマで、私自身も日々取り組んでいます。

考えてみれば、世の中の「滞り」には、必ず元となっているものがあります。高速道路の自然渋滞も、始めは一台の車のブレーキから始まります。その滞りが次の車のブレーキに繋がり、渋滞になっていきます。

3月21日(水)春分の日に開催する「Kiフォーラム2018
」では、 世の中の「滞り」を研究なさっている 東京大学先端科学技術研究センターの西成活裕教授をお迎えしてトークセッションいたします。
定員となりましたので、現在は「キャンセル待ち」のみ承っています(3/10現在)。

西成先生はいま熱心に心身統一合氣道を稽古なさっています。西成先生と私のWeb特別対談も公開されていますので、ぜひこちらもご覧下さい。

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